· 

主は守られるお方

テキスト

詩篇91:1-5

91:1 いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る。

91:2 私は主に申し上げよう。 「私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神」と。

91:3 主こそ 狩人の罠から 破滅をもたらす疫病から あなたを救い出される。

91:4 主は ご自分の羽であなたをおおい あなたは その翼の下に身を避ける。 主の真実は大盾 また砦。

91:5 あなたは恐れない。 夜襲の恐怖も 昼に飛び来る矢も。   

 

(1)主は守られるお方

①狩人の罠、疫病から守られる

詩篇91:3をもう一度お読みいたします。

91:3 主こそ 狩人の罠から 破滅をもたらす疫病から あなたを救い出される。

 

皆さん。ここには神様の具体的な守りについて記されています。狩人の罠というのがあります。動物に仕掛ける罠は人間からすると判別できたりします。しかし、動物からするとそれが罠であるということがわからないのです。イノシシとか熊とか、大きな檻を仕掛けたりします。

 

これが私たちに向けての敵の仕掛ける罠だったらどうでしょうか。人はなかなか気づかないのです。「これは良いものですよ」と言って近づいてくるからです。その言葉によって良いものに見えてくるのです。でもそれは罠なのです。

 

疫病はどうでしょうか。世界中が新型コロナという疫病に苦しみました。これは私たちの目に見えるでしょうか。見えませんね。電子顕微鏡という特殊な顕微鏡で初めて見分けることができるそうです。一部の研究者レベルの話になってきます。私たちの肉眼ではさっぱりわかりません。でも感染するとひどい症状が現れてくるのです。もしこの目で見えていたら、危ないから近づかないとか、ここに付着しているから消毒しようとかなりますが、残念ながら見えません。

 

神様は、これらの危険な罠や破滅に至る疫病からも救い出してくださると約束しておられます。いと高き方の隠れ場に住む者を守るとの約束です。

 

私たちもインフルエンザにかかったり、コロナに感染したりします。それによって破滅したでしょうか。もし破滅していたら今ここにはいないのです。この世には明らかに破滅に至る疫病もあります。でも神様の隠れ場に住む者は、神様が守ると言われるので、その守りをそのまま信じていきましょう。

 

②主は私たちをご自身の翼でおおわれる

詩篇91:4

91:4 主は ご自分の羽であなたをおおい あなたは その翼の下に身を避ける。 主の真実は大盾 また砦。

 

神様は鳥のような翼をもっているのでしょうか。これは比喩表現ですね。鷲が翼でヒナを守るように、そのようにその力ある強い手で私たちを守ってくださると約束してくださっています。約束をきちっとたがわずに守る人のことを何というでしょうか。誠実で真実な人といいますね。神様はそのように守ってくださいます。

 

そして大盾のようであり、砦のようだとこの詩編の作者は証をしています。これは自らの体験から生み出された証です。これまで、何度もわたしを守り助けてくださったという証です。過去に主は大きな不思議な力で守ってくださった。だから、これからも守ってくださるという確信です。

 

③恐れから、敵の攻撃の火矢から守られる

詩篇91: 5

91:5 あなたは恐れない。 夜襲の恐怖も 昼に飛び来る矢も。

 

ここで、この人は恐れについて告白しています。「私は何度も恐れていた。敵が夜襲ってくるのではないかと眠れない夜を何度も過ごした。そして真昼には敵が矢を放ってくるのではないかと何度も恐れた。」 しかし、この人は今、私は主の隠れ場にいるので、何一つ恐れがありませんと告白しています。

 

敵が攻撃に用いる常套手段のひとつは、「恐れであり脅かし」です。私たちの思いの中に、イメージのなかに、否定的な考え、悲観的な思いを持ってくるのです。しかし、私たちはこれらを受け入れてはいけません。なぜなら、神様が守ると約束しておられるからです。神様が約束してくださったことと違うからです。私たちはいつでも信仰に立つということが大切です。

 

恐れや否定的な考え、悲観的な思いや想像がやって来た時は、これらを必ず拒否しましょう。こころに思い浮かぶことを、何でも受け入れてはいけません。そこに敵の攻撃があるからです。

 

(2)この地上では戦いがある

①敵である悪魔

Ⅰペテロ5:8をお読みします。

5:8 身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

 

聖書は、敵の存在、悪魔の存在があることをはっきりと言っています。そして彼の仕事は、食い尽くそうと獲物を捜し回っているというのです。

 

でも、主にある者は何も恐れる必要はありません。神様が共にいてくださるからです。すべては神様にある支配と権威が私たちをおおっているからです。神様のお許しなしには敵は私たちを攻撃することはできません。アーメンですか?

 

ヨハネ16:33をお読みします。

16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。

 

②わたしは勝利した

私たちは、この世にあって苦難、患難に出会うとイエス様は語られました。また、「しかし」と言われました。「わたしはこの世に勝利しましたよ。だから、勇気を出しなさい。」と励ましてくださっています。

ルカ10:19をお読みします。

10:19 確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。

 

イエス様は12弟子に人々をいやし解放する権威を授けられました。そして彼らを町々、村々に派遣したのです。イエス様の言われた通りに彼らは人々をいやしました。悪霊を追い出しました。ハレルヤ。そして「敵はあなたがたに害を与えることはできません。」と言われたのです。感謝です。私たち信じる者にも同じように語ってくださいます。

 

(3)勝利し続けるために御霊の武具を取る

私たちもこの世にあって勝利し続けるために何が必要でしょうか。エペソ6:10-13をお読みします。

 

6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。

 

①神の武具を身に着ける

ここでは、私たちがこの霊的な戦いに勝利するために、神の武具を身につけなさい、 神の武具を取りなさいと言われています。もちろん、イエス様がいつも一緒におられますが、イエス様が私たちが勇士として立ち上がることを願っておられます。私たちには私たちが果たすべき役割があります。

 

弟子たちも、イエス様と分かれて2人一組になって出て行ったのです。その時にその神の武具を身に着けて出て行ったのです。

 

②私たちの戦いは霊的な戦い

 

私たちの戦いは、人と人の戦いではないのです。血と血を流すものではありません。刀とかライフル銃などを掲げるものでもありません。ミサイルや戦車で砲弾を放つものでもありません。私たちの戦いは暗闇の支配者であるサタンとの戦いであり、その手下である悪霊どもとの戦いであると聖書は教えています。

 

これは霊的な戦いです。目には見えません。ですからここでは神の武具を取りなさいと言われています。もし、私たちの内にしょっちゅう不安が押し寄せて来るなら、これは敵の攻撃だと思ってください。神様のお心は、平安だからです。神様の武具が内側にないことが予想されます。

 

もし、私たちのうちに、否定的な考えが絶えず浮かんできて不平と不満が満ちているなら、神様の武具が内側にないことが予想されます。神様の武具をしっかり身につけましょう。そして勝利的な歩みをしましょう。

神様の武具の具体的なものは次の機会に回したいとおもいますが、その一番目の武具だけ見てみましょう。

 

エペソ6:14をお読みします。

6:14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

 

腰に真理の帯を締めなさいとあります。真理の帯です。警察官の姿について学んだことがあります。警察官でもたくさんの装備を身に着けています。無線機であったり、手錠であったり、こん棒であったり、ピストルであったりします。これは非常に重要な装備品です。これらのものはベルトをして初めて装着することができるものです。ポケットでは対応が難しいのです。いつでも緊急的に対応できるためにはベルトを締める必要があります。腰に力を入れるためにも必要です。

 

真理の帯とはなんでしょうか。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われました。また、イエス様は「神のことば」であると記されています。すなわち、イエス様としっかりつながり、神のことばを身に着けるということですね。み言葉を正しく理解して神様のお心を悟るということです。ですから、毎日私たちはみ言葉を読み、学びます。

 

そしてイエス様は聖霊様のことを真理の御霊と言われました。私たちに真理を教え導いてくださるからです。ですから、聖霊様に頼る歩みをするということです。ともに歩むのです。これが真理の帯を締めるということです。自分の力や能力に頼るのではないのです。