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二人の主人に仕えることはできない

テキスト

マルコ10:17-30

10:17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」

10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。

10:19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」

 

(1)永遠のいのちを求めた青年

①真理に渇いていた青年指導者

このお話は、ガリラヤからエルサレムに上る途中のある町でのできごとです。イエス様のもとにある一人の人が駆け寄ってきました。そしていきなりイエス様の前にひざまずいたとあります。マタイの福音書では彼は青年と表現されています。ルカの福音書では、彼は指導者であったとあります。彼は、地位も名誉もある人物でした。ユダヤ教の指導者のひとりでした。幼いころから、律法の教えを忠実に守ってきたのです。でも彼には飢え渇きがありました。「律法を固く守るように教えられてきて、そして忠実に守ってきた。でも何かが足りない。なんだろうか。私はこのまま神の国に入ることができるのだろうか?」確信が無かったのです。

 

そんな時、彼はイエス様の噂を聞きました。神の国の訪れを説いている預言者が現れたというのです。「もしかしたら、この方がメシア、キリストだろうか。そうだ、噂だけでなく、直接会いに行ってみよう。」彼はどうしてもイエス様と、直接話がしたかったのです。そこで、作戦を立てて実行しました。

 

なんと、イエス様の前に飛び出て来てひざまずいたのです。半信半疑の行動でした。キリストだと信じているわけではない、でも形はそのようにしないときっと聞いてもらえないと考えたのでしょう。そうして、言いました。「良い先生」

 

イエス様は、この良い先生という言葉に反応します。なぜなら、彼の心の中を見抜いていたからです。彼が本心から、自分を神の子と認めていないことがわかっていました。形ばかりでした。「良いというお方は神ご自身しかいないのです。なぜ、信じてもいないのに、わたしのことを良い先生と言うのか、あなたは本当に私がメシアだと信じているのですか。」 実際にそこまでは言っていませんが、そのような含みをもって答えられました。

 

私たちの神様は私たちの内側をすべてご存知です。何も隠すことはできません。ですから、最初から正直になるべきですね。神様の前に、正直にありのままの姿で出ていきましょう。

 

この青年は、とにもかくにも自分が最も聞きたいことを直接イエス様に聞いてみました。「永遠のいのちを得るためには何をしたらいいのでしょうか。」

 

②神の教えを守りなさい

マルコ10:19-20をお読みします。

10:19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」

10:20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」

 

イエス様はこの青年がどれくらい神の国に飢え渇いているのか試しました。普通の律法学者が答えるように答えました。だれもが知っている旧約の大切な律法、十戒の教えを取り上げたのです。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。」小さな子供でも知っています。人間関係に関する6つの教えです。残りの4つは、神様についての教えです。

 

なぜ、イエス様は人間関係についての律法だけを取り上げたのでしょうか。それは、彼が永遠のいのちを持つ、すなわち天の御国入るには律法という行いを積むことだと考えていたからです。しかも、その行いさえも中途半端だったからです。それがたいていの律法学者の歩みでした。神様のお心を求めてはいなかったのです。

 

彼の答えは何だったでしょうか。「その戒めは、小さいころから聞いています。そして守ってきました。」と自分の正しさを主張しました。

 

この6つの律法についてイエス様は一言でギュッとまとめて言われたことがあります。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」でした。この6つの律法が隣人を愛するということなんだということを彼は理解していませんでした。それで律法は守っていると考えていたのです。律法という行いだけで、その中身がおろそかになっていたのです。すなわち、神様のお心を知りませんでした。

 

③富に執着していることを見抜かれたイエス様

マルコ10:21-22をお読みします。

10:21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」

10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

 

そしてイエス様は、彼が莫大な財産を持っていること、そして彼がその富に執着していることを見抜きました。彼は、その財産をもって隣人を助けるということをしませんでした。「隣人を愛しなさい」というみ言葉を正しく理解していなかったのです。そして愛する力があるのに、しなかったのです。

 

イエス様は心の飢え渇きをもってやって来た彼に憐みをもって言われました。「あなたには欠けた所があります。持っている物を貧しくて困っている人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになるのです。そのうえでわたしについてきなさい。」 神様のお心は隣人を愛することですよと優しく諭されたのです。彼の反応はどうだったでしょうか。彼は心の中で思いました。「そんなことはとてもできない。なんということか。永遠のいのちを求めて来たのに、財産を手放せと言われるとは。」

 

④金持ちが天の御国に入ることの難しさ

マルコ10:23-25をお読みします。

10:23 イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」

10:24 弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。

10:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

 

イエス様は、ここで金持ちになることが悪いことだと言われたのではないのです。金持ちの特性について言っています。金持ちは、お金を儲けることにとても意欲的です。熱心です。だから財産を築くことができるのです。

 

あるいは、親や先祖から財産を引き継いだのかもしれませんが、大切に管理して守って来たから金持ちでいられるのです。イエス様はそのことを否定していません。

 

その心の姿勢を見ておられます。心の態度を見ておられるのです。お金というのは、ものすごい強烈な力を持っています。「お金さえあれば何でもできる。困ることはない」と多くの人は考えます。でも、私たちを造られた天地創造の神様が私たちを生かして支えてくださっている、ということを忘れています。私たちに健康を与え、私たちが元気に活動し仕事をして稼ぐことができるようにしておられます。神様の恵みのおかげなのです。

 

もし、金持ちがそのことを忘れずに絶えず神様に栄光をお返しして感謝を捧げる人であれば、神様はその金持ちをとても喜ばれるのです。でも多くの金持ちはそのことを忘れおろそかにするのです。なぜならば、お金の力は強力な力を持っているからです。「お金、お金」と追いかけてしまうのです。多くの金持ちは、お金の誘惑に捕らえられてしまっているといってもいいでしょう。

 

ですから、イエス様は言いました。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

 

「らくだ」と「針の穴」と何の関係があるのでしょう。あまりにもかけ離れすぎていて、少し分かりにくいですね。あの大きならくだが小さな針の穴を通るわけがないでしょう。当たり前すぎてかえって意味がよくわからないと思いますね。でも、ここで言う「針の穴」というのは、一般的な縫物をする針のことを言っていません。

 

「針の穴」という固有名詞のことを指していると言われています。エルサレム城内に入るための小さな門を差しています。昼間は大きな門を通って出入りできますが、夕方になると門は閉じられます。するとすぐそばにある小さな門を通して出入りが行われます。人がかがんでやっとの思いでくぐって通ることのできる小さな門があるのです。荷物を積んだ大きならくだはとてもくぐれなかったのです。

 

どうしても通らなければならないときはどうしたのでしょうか。すべての荷物を降ろす必要がありますね。そしてらくだを低くかがませて、ハイハイするような形でくぐらせる必要があります。とても大変な困難なことだったのです。

 

同じように、金持ちが神の国に入ることも似ていると主は言われました。その背負っているすべてのものを降ろす必要がありました。金持ちは、お金以外にも、背負っているものが多いのです。そのすべてを降ろす必要があります。持っている権威や権力、プライドを降ろして神様の前にへりくだることが求められるのです。

 

⑤すべてを捨ててきました

弟子たちの反応はどうだったでしょうか。マルコ10:26-30をお読みします。

10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

10:27 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」

10:28 ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」

10:29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、

10:30 今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。

 

弟子たちは、言いました。「こんなにたいへんな思いと苦労をしないと救われないのなら、いったい誰が救いを受け取るこができるのでしょうか。」

 

「神様にはできるのです」と主は言われます。考えてみると、救い自体が神の奇跡です。自分の力では救われることができません。だれも清くないからです。罪人だからです。だれも自分の力で罪をぬぐえません。自分の力で神に喜ばれることはできないからです。救われる事、これ自体、奇跡中の奇跡です。私たちはその奇跡をいただいているのです。ハレルヤ。

 

ペテロは、言いました。「イエス様。私はあなたが言われたので、自分の漁師の仕事もみな捨ててきました。家族も故郷に残してきました。すべてをあなたのために捨ててきました。」

 

イエス様は言われました。「あなたがたのように、福音のために自分の持てるものを捨てた人、捧げた人は、この世でも百倍の祝福を受けますよ。神の国では永遠のいのちを受けるのです。」 ここでイエス様は永遠のいのちについて語っています。あの金持ちの青年がもっとも知りたかったことですね。お金に執着していては神の国は遠いということです。

 

(2)二人の主人に仕えることはできない

①神様に仕える

イエス様は、私たちの世界には、2人の主人がいると言われました。誰と誰でしょうか。マタイ6:24をお読みします。

6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

 

ひとりは、神様のことです。もう一人は富だと言っています。お金、株や金銀、宝石、土地、建物や財産などの富が主人だというのです。ある人は、「私は富に仕えていませんよ。富は何もしゃべりませんよ。指図もしませんよ。ですから仕えていません。それに富と言われるほどお金を持ってもいません。」

でも陰で、その富を使って人間をうまく操る存在がいるのです。人間を誘惑する存在です。その目を見えなくする存在です。サタンです。彼が人間が神様ではなく、富を求めるように仕向けるのです。

 

②富に仕える

富に仕えるとはどういうことでしょうか。富第一主義になるということです。神様の教えではなく、富第一に生きるということです。神様のことよりも、仕事のことを優先します。金儲けのことを最優先にするのです。この人は富に仕えていることになります。

 

神様のお心は何でしょうか。神の国とその義を第一に求めなさい、ということです。「安息日には安息してわたしを求めて礼拝し、わたしに感謝をささげなさい」これが神様のお心です。

 

③この世に執着する

富は、この世と言い換えることもできると思います。この世には、自分自身を捕らえて離さない、自分自身を惹きつけるものをもっています。この世の魅力がたくさんありますね。私たちを誘惑するいろんな魅力的なものがあります。

 

ある人にとっては、地位や名声かもしれません。ある人にとってはやりがいのある仕事かもしれません。ある人にとっては大切な家族かもしれません。ある人にとっては自分自身を着飾ることや美しくすることかもしれません。ある人にとっては趣味や特技かもしれません。

 

ひとつひとつのことは決して悪いものではありません。でも私たちがこれらに執着して離さないとき、この世が主人となってしまいます。私たちはいつでも、ひとつひとつを点検して、いつでもこれらのことが私たちの主人にならないようにしましょう。私たちの本当の主人は神様ご自身だからです。

 

④心を天に向けるために

私たちの心が絶えず神様をご主人としてあがめ、天に心を向けるために、一つの方法が示されています。

マタイ6:20-21をお読みします。

6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。

6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

 

天に宝を蓄えなさいと言われています。天国に貯金をしなさいということですね。どうやって送金したらいいのでしょうか。この地上の現金を持って、直接天国銀行に出向くことはできませんね。どうしたらいいのでしょうか。

 

イエス様は、自分の財産で施しをしなさいと言われました。施すことのできない、この地上でお金のない人はどうしたらいいのでしょうか。やっぱり天国でも貧乏になるのでしょうか。いいえ。違いますね。お金の価値や重みは、それぞれの人によって違います。小さな金額でも、その人にとっては大金である場合があるのです。またこの「天に宝を蓄える」ということ、これは、「隣人を愛する」というお言葉につながっています。財産以外でもいろいろな愛の行いをすることができますね。その一つ一つが天国銀行に蓄えられると教えているのです。

 

施しも、そして神様への捧げものも、私たちは喜んでささげる者になっていきましょう。その一つ一つは、神様に喜ばれるからです。そして一つ一つは覚えられて天に蓄えられるからです。もし、天に自分の財産があるなら、その人の心は天の御国から目を離さなくなるのです。これは大きな祝福です。