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私たちの生活の場にともにおられる主

テキスト

Ⅱ歴代20:1、14-17、21-22

20:1 その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。

 

20:14 ときに、主の霊が会衆の中で、アサフ族の出であるレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタンヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。

20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々、エルサレムの住民、およびヨシャファテ王よ、よく聞いてください。主はあなたがたにこう言われます。『この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。

20:16 明日、彼らのところに攻め下れ。見よ、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前、谷の外れで彼らに出会う。

20:17 この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。ユダとエルサレムよ、恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにおられる。』」

 

20:21 彼は民と相談し、主に向かって歌う者たちと、聖なる装いをして賛美する者たちとを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう言うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」

20:22 彼らが喜びと賛美の声をあげ始めると、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。

 

(1)ヨシャファテに戦いを挑んだ敵

①サタンの支配とイエス様の救い

先週、私たちは、この世について学びました。そしてこの世の支配権はサタンが握っているということを学んだのです。でもイエス様は十字架の上でサタンを打ち砕かれました。そして私たち人類のすべての罪からの救いを成し遂げられました。すべての人は、罪に定められなくなるという素晴らしい特権をプレゼントされたのです。

しかし、それを受け取った人は多くはありません。その恵みにあずかっている人は少ないのです。依然として受け取っていない人は、罪に定められるのです。人は罪をもったままでは神様の前に出ることはできません。イエス様の罪の赦しを受け取る必要があるのです。自分の罪を悔い改めて、イエス様の救いを受け取る必要があります。これが神様からのプレゼントだからです。

イエス様を信じた人々は、この地上でどのように歩んで行けばいいのでしょうか。救いは受け取ったけど、後は、何にもない、放ったらかされてサタンの餌食になってしまっては元も子もないのです。

 

神様は、そんなことはされません。私たちひとりひとりを愛してくださっているからです。私たちの内側に聖霊様を住まわせてくださいました。そして聖霊様は、私たちと共に生きて、歩んでくださいます。私たちとの交わりを大切にしてくださるのです。私たちに声をかけて、その必要を知り、導きを与えてくださるのです。私たちの生活の場に一緒にいてくださるのです。さきほど、お読みしたヨシャファテの記事は昨年も学びましたが、今日はそのことをもう一度思い出して、どのように神様がその生活の場にともにおられたのかを見てみましょう。

 

②大軍が攻め込んできた

Ⅱ歴代20:1をもう一度、お読みします。

20:1 その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。

 

ヨシャファテは、天地創造の神、イスラエルをエジプトから導き出した、生きて働く全能の神様を礼拝しました。忠実に神様に仕える王様でした。しかし、この時、ヨシャファテは試練の道を通たされたのです。私たち信仰者は、いつでもどんなときでもわざわいや病気に遭わないかと言うと、そうでもありません。ときどき試練の道を体験するのです。神様があえてこの道を通ることを許されるのです。どうしてでしょうか。

 

私たち人間は非常に高ぶりやすい者だからです。高慢になりやすいのです。傲慢になりやすいのです。これは、神様の嫌いな性質です。ですから、「あなたはわたしの前にへりくだりなさい」といって私たちにあえて険しい道を通されることがあるのです。そしてそれは訓練でもあります。

 

これは私たちのために神様がなさることです。神様に愛が無いのではなく、逆に神様が愛されるからこそ私たちを訓練されるのです。

ですから、ちょっと嫌なことを経験したからと言って不平不満を言うのはやめましょう。「ああ。神様がこのことを通して何かを教えておられる。神様、何を悟らせてくださるのでしょうか。?」これが、私たちがとるべき態度です。神様は愛の神様だからです。

 

③恐れたヨシャファテはどうしたか

大軍が攻めてきたとき、ヨシャファテ王はどうしたでしょうか。彼は祈ったのです。神様の前に正直になって、へりくだって祈ったのです。「この大軍に立ち向かう力は私たちにはありません。ただあなたに目を注ぐことしかできません。あなたを呼び求めることしかできません。どうか救ってください。」

 

彼は、飾ることなく、自分を取り繕うことなく、正直に祈ったのです。

 

私たちも神様の前に出る時には、何も取り繕う必要はありあません。何も飾ることも要らないです。ありのまま、正直に出てもいいのです。

 

ルカ15章で、イエス様がある放蕩息子の話をされました。何もかも放蕩してすっからかんになった放蕩息子の話です。食べるのに困ってボロボロになって、やっとの思いで父親のところに帰ってきました。その放蕩息子に対して、父親は彼を遠くから見つけました。急いで走って行って彼を迎えたのです。抱きしめて口づけしてあげました。彼をありのまま受け入れてくださいました。これが父なる神様のお心です。ありのままで受け入れてくださるのです。ハレルヤ。ですから、ありのままで、正直に祈っていきましょう。不平不満を申し上げるのではなく、今の現状を申し上げて助けを呼び求めてもいいのです。

 

④レビ人ヤハジエルの預言

ヨシャファテ及びユダの民が心を合わせて祈った時、神様が答えてくださいました。20:15をお読みします。

20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々、エルサレムの住民、およびヨシャファテ王よ、よく聞いてください。主はあなたがたにこう言われます。『この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。

 

神様に仕えるレビ人が神様のお言葉を受け取ったのです。「この大軍を恐れないように。これは神の戦いだから。わたしが戦うのだ。」

 

何と、力強いお言葉でしょうか。私たちも毎日このようなお言葉、声掛けをいただきたいですね。いろんな苦難や試練、問題やさまざまな課題にぶつかるとき、つまづきや生きづらさを味わうとき、「大丈夫だよ。わたしが一緒にいるよ。わたしが助けるよ」と毎日声掛けしてもらったら、どんなに心強いでしょうか。どんなに力を受けるでしょうか。

 

私たちに毎日お言葉を届けてくれるレビ人は私たちにはいません。でも、今私たちには聖書のお言葉があるのです。毎日語って下さるのです。神の言葉が私たちを教え導いてくれるのです。そのお言葉を毎日受け取っていきましょう。「主よ。私に必要なお言葉を語って下さい。」と祈って求めていきましょう。主は語って下さるのです。

 

それだけでなく、聖霊様が私たちの内に住んでくださっています。そのお方が共にいて教えてくださると約束があります。

ヨハネ14:26をお読みします。

14:26  しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 

そのお方は助け主です。ですから、いつでも私たちはこのお方に助けを求めることができます。ハレルヤですね。

 

⑤主の言葉に従順したヨシャファテと民

ヨシャファテは神様が語られた事に対してどう反応したでしょうか。彼は信じました。そして神様をほめたたえました。そして礼拝したのです。神の助けが来ることを喜びました。そしてそのお言葉に従順に従ったのです。「ああ。もう大丈夫」そして信仰に立ったのです。どうしたでしょうか。Ⅱ歴代20:21-22をお読みします。

 

20:21 彼は民と相談し、主に向かって歌う者たちと、聖なる装いをして賛美する者たちとを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう言うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」

20:22 彼らが喜びと賛美の声をあげ始めると、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。

 

彼はただ喜んだだけでなく、信じたことを行動に表したのです。なんと賛美隊を結成して、軍隊の先頭を歩かせたのです。力強い喜びと賛美の声を上げさせたのです。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」 実際の戦いの前に、感謝と賛美が響いていたのです。軍隊を補強したのではなく、賛美と礼拝を加えたのです。

 

 

するとどうでしょう。神様は伏兵を設けてくださったとあります。神様が超自然的に介入してくださったのです。敵の軍勢を神様が打ち負かしてくださいました。

 

⑥主は私たちの生活の場の必要をご存知

今日のこの記事は、聖書に書かれている一つの出来事ですが、単なる過去の出来事だと考えないようにしましょう。自分とは関係ない事と捉えないようにしましょう。神様は私たちの生活にも関心をもっておられるからです。そして私たちの必要を知っておられるからです。

 

私たちも、毎日語ってくださる神様のお言葉を握って、信じていきましょう。そして信じたことを行動に起こしましょう。ヨシャパテが信じて、賛美隊を結成して感謝と賛美を捧げさせたように、信じて感謝と賛美を神様に捧げましょう。何かが起こる前に感謝と賛美を神様に捧げるのです。信仰の行いをしていきましょう。

 

(2)御霊によって歩む

①聖霊が好まれる住まいとなる

さきほど、聖霊は私たちの助け主で、私たちの中に住まわれるという話をしましたが、神様は私たちのことを何と呼んでいるでしょうか。

 

Ⅰコリント人6:19-20をお読みします。

6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

 

イエス様を信じた私たちのうちには、聖霊様が住んでくださっています。そしてここにあるように、私たちは聖霊の宮となっているのです。宮とはなんですか。神殿です。神様が礼拝されるところです。神聖な場所ということです。本当にもったいないことですが、私たちは聖霊が住まわれる宮となったということです。

 

私たちはこの宮の管理でもあります。ですから、聖霊様が好まれる宮となっていきましょう。喜んで聖霊様が住まわれる宮になりましょう。どうすればいいのでしょうか。自分の力によって歩まないで、聖霊様に頼って歩むことなのです。

 

②御霊によって歩む

ガラテヤ5:16-17、22-23をお読みします。

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

5:17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

 

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 

御霊と反対の言葉が出てきます。なんでしょう。肉です。これは生まれながらの自分のことです。肉の性質、罪を犯す性質のことを言います。私たちはイエス様にあって罪赦され、救いにあずかりました。でもまだこの肉を持って生きています。

 

でも、聖書は言います。この肉は御霊と相逆い、対立しますよと。ですから、私たちはこの肉に死ぬことが必要となってきます。これは聖霊様に頼らなければできません。自分の力ではできません。聖霊様が助けてくださいます。なぜなら、わたしたちは神様によって救われたからです。神の子どもとされたからです。聖霊様が導かれます。

 

神様は、私たちが御霊によって歩むことを願っておられます。そして御霊とともに生きることを願っておられます。ですから、私たちはこのことをしっかりと頭に入れて、従順していきましょう。そして御霊の実を結ばせていただきましょう。これは聖霊様のご性質です。私たちがこの実を豊かに結ぶとき、聖霊様は喜ばれるのです。居心地がいい場所となるのです。