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神様は私たちの必要を知っておられる

テキスト

使徒3:1-11

3:1 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

3:2 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。

3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。

3:4 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。

3:5 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。

3:6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

3:7 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

3:8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。

3:9 人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。

3:10 そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。

3:11 この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。

 

(1)美しの門でのできごと

ペテロの説教によって、1日で3000人の人たちが信じて仲間に加えられたということを先週、見てきました。ものすごい奇跡があったのです。いっぺんにこのような多くの人々が信じて、悔い改めて、洗礼を受けて仲間に加えられるというすさまじい奇跡は、教会が始まる出来事として記念すべき大きなことでした。

 

しかし、その聖霊様のわざはこれで終わりませんでした。神様は、イエス様が十字架で死んでよみがえったという事実を通して救いの恵みを押し広げてくださいました。イエス様の十字架の恵みはこの3000人くらいの人々の為だけではなかったのです。ハレルヤ。

 

聖霊様は、弟子たちを通して様々なわざを成されるのです。

 

①生まれつき足のきかない男性

ペテロとヨハネが午後三時の祈りにやって来たとあります。信仰深いユダヤ人は、朝九時の祈りと午後三時の祈りを大切にしていました。時間を合わせて2人もやって来たわけです。

 

宮の中に入ろうとすると、一人の人と出会いました。なんと生まれつき足のきかない男性でした。この人は、「美しの門」と言われるところに、毎日運んできてもらっていました。この「美しの門」は神殿の入口のところにある門でした。多くの人が、この門を通って中に入りました。多くの人です。よく目立つ場所だったのです。人々が多く出入りするので、この男性にとっては都合が良かったのです。

 

「よし、よし、ここだったら大勢の人がやってくるから、きっと誰かが恵んでくれるに違いない。ここだったらきっと1日1日を食べていけるに違いない」そのように考えたのです。

 

聖書を見ると、ペテロとヨハネが宮に行ったとき、「すると、運ばれてきた」と表現されています。運ばれてきたタイミングのほうが少し早いと思われます。なぜなら、彼はペテロとヨハネに施しを求めているからです。

 

運ばれてきた時間は、午後の三時の祈りの時間ですので、もう太陽も傾き始める時間です。あまり長い事、仕事はできません。朝から粘って粘って施しを求めていたわけではないのです。もしかすると、この男性の体力はあまり強くなかったと想像できます。

 

②施しを求める毎日

彼は、人々の施しだけで生計を立てていました。その日その日の食べる分をどうにか得ているという毎日でした。安定したものは何もありません。人々の憐みの心、そして神様のくださる恵みに期待して生きていたのです。神様は、彼の願い、彼の祈りを忘れていませんでした。彼に特別な恵みを与えられたからです。

 

(2)私にあるものをあげよう

①ペテロにあるものは何か

彼はペテロとヨハネがどんな人かはあまり心に留めていなかったと思われます。しかし、ペテロは聖霊に満たされて、聖霊の力を着せられていました。何をしたらいいのか、聖霊様の声をよく聞いていたと思います。その御声に従って人々のために祈っていったのです。

 

「旦那様、どうぞ、その恵まれないこの者に施しをお与えください」 そのように声をあげた時、ペテロはすぐに反応したのです。聖霊様の促しを心で聞いたのです。これまでも、この門を何度も通って来たのです。この足の不自由な男性を何度も見かけたと思うのです。この男性もその日が初めてではなかったからです。

 

しかし、ペテロは、その時のその声に反応したのです。聖霊様の促しを受け取ったのです。そして言いました。

3:6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 

いやしが行われる前に、預言的に確信に満ち溢れて、いやしを宣言したのです。このお言葉は、本当にピカピカと光る、ダイヤモンドのようなお言葉だと思います。大好きなお言葉です。「主よ。このような言葉を私にも語らせてください」と飢え渇きます。

 

実際、お金もあまりありませんが、「私にあるものを上げましょう。イエス様のいやしを受け取りなさい」と言うことができたら、どんなに力強いでしょうか。ない袖はふれませんが、あるものだったら、差し上げることができますね。ペテロは、彼の手を取って立ち上がらせたのです。神様のいやしを提供したのです。

 

神様は、この男性の必要をよくご存知でした。その日その日の施しをしてくれる人々を備えることもそうでしたが、彼にとって一番必要なことは、歩けるようになって自分で働くことができるようになることでした。自分で生活を自立することでした。

 

の一番必要なものを神様はこの男性に与えてくださったのです。いやしを受けて、この男性はどうしたでしょうか。いやされた喜びを爆発させました。

 

喜んで喜んで、飛んだり跳ねたり、踊ったりして神様を賛美したのです。「足が動く、身体が動く、歩けるようになった、走ることも、飛び上がることもできる。」といって、何度も何度も神様に体全体で感謝したのです。ハレルヤ。

 

②すべての信じる人は病のいやしを行うことができる

皆さん。この癒しのわざはいったい誰のものでしょうか。ペテロや使徒と呼ばれる人たちが行うわざでしょうか。

ヨハネ14:12をお読みします。

14:12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

 

イエス様はある時、弟子たちに教えました。わたしが行って来たいろんな奇跡のわざをあなたがたも行いますよ、ということです。これは弟子たちだけに語られたものではなく、「わたしを信じる者は」となっています。ですから、このことは私たちも含まれるということです。

ですから、私たちは信仰をもって病のために祈っていきましょう。イエス様の約束があるからです。「イエス様、ここにこう書かれていますよ。あなたのお言葉のとおりに癒しを行わせてください」と信仰をもって祈り、人々のいやしを求めていきましょう。

 

(3)主の山には備えがある

神様は、足のきかないこの男性のことを心にかけておられました。そしてその必要を満たしてくださいました。同時に、神様は私たちの必要もご存知です。私たちのすべてをご存知です。そしてその祈りに答えてくださるお方です。

 

①アブラハムの必要

アブラハムが神様によって試練を通らされた記事があります。神様がある時、最愛の息子を全焼のいけにえとしてささげなさいとアブラハムに言われました。アブラハムは神様の語りかけを何度も受け取って、その通りに従順に行動した人でした。神様の命令通りに、イサクを連れてモリヤという山に向かったのです。

 

イサクが、「いけにえはどこにあるのですか」と聞きましたが、この時は正直に伝えることができませんでした。「神様が備えてくださるよ」とだけ伝えたのです。モリヤの山に到着して、イサクに告げました。「イサクよ。これは神様からのご命令だ。お前が全焼のいけにえなのだ。」そう言って、ナイフを振りかざしてイサクを捧げようとしました。でも、神様は、止められました。「わたしに対して、あなたがどれだけ忠実な者かがよくわかった」といってイサクを捧げるのをやめさせたのです。その続きです。

 

創世記22:13-14をお読みします。

22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。

22:14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

 

神様は、アブラハムのことばどおりに、真実にいけにえを備えてくださっていました。なんと、1匹の雄羊が角をやぶに引っかけて動けなくなっていました。神様のお言葉に忠実に従順するものを神様はその必要さえも満たしてくださるということがよくわかりますね。これは、偶然のできごとではないのです。神様の取り計らいです。導きです。恵みでした。

このような神様の取り計らい、導き、恵みは、アブラハムだけのものではなく、信じる私たちにも神様は与えてくださいます。そのことを信じていきましょう。「主の山には備えがある」ということを心に留めていきましょう。

 

②マナを降らせた神

モーセがイスラエルの民、約300万人くらいだと言われていますが、彼らをエジプトから導いてきたとき、そこは、荒野でした。豊かな水の流れる果樹園のような場所ではなかったのです。荒野でした。すぐに困りました。飲み水がないのです。食べる物がないのです。

 

しかし、神様は彼らの必要をご存知でした。あの紅海という巨大な海を裂いてその真ん中を通らせるという偉大な奇跡を行なわれたお方が、何の計画もなく、この膨大な数のイスラエルの民を、ただ荒野に導かれるでしょうか。いいえ、神様はちゃんとご計画をもっていました。

 

出エジプト記16:14-15をお読みします。

16:14 その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。

16:15 イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。

 

イスラエルの民は、神様によって試験を受けさせられたのです。「ちょっとだけ荒野の経験をさせてみよう。彼らはわたしに信頼することができるだろうか。」そしてすぐに、飢えと渇きがやって来たのです。残念ながら、イスラエルの民はこの試験にパスすることができませんでした。すぐに神様に不平を言ってしまったのです。

 

皆さん。私たちはすぐに不平と不満を持ちやすい者です。それが私たち人間です。私たちの生まれながらの性質です。でも私たちはイエス様の十字架の血によって買い取られました。新しくされました。ハレルヤ。私たちの内には、み言葉があります。このお言葉を握っていきましょう。不平不満ではなく、感謝に生きることができるのです。

 

ピリピ4:6-7をお読みします。

4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 

何も心配しなくてもいいよ、と語っていますね。わたしが心配しますよ、と神様が言ってくださっています。ですから、私たちはいろんな心配を神様にお話ししてゆだねていきましょう。お任せしていきましょう。

 

私たちがやるべきことは何でしょうか。心配することではないのです。神様にバトンタッチして信頼することです。そして、感謝を捧げることだと言うのです。感謝です。神様に感謝する人は、不平不満を持つことがないからです。これは、感謝と不平不満は相対するものです。交わることはありません。神様は私たちが信頼して感謝することを切に願っておられるのです。

 

私たちは、すべて私たちに関する必要を神様がご存知であるということを、信頼していきましょう。ローマ8:28節をお読みします。

8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 

神様が心配してくださるので、すべてのことが益に働くと書かれていますね。もしかすると、目に見えることや、実際に体験することが、困難な状況かもしれません。嫌なきつい事かもしれません。痛みを伴うことかもしれません。でも、この時に、神様の試験があるのです。私たちがどのように対処するのか、神様は試験しておられるのです。

 

この時こそ、私たちは、ハレルヤと叫んで神様に感謝を捧げるべき時なのです。困難な時こそ、そのことを通して私たちを訓練してくださり、私たちを練ってくださり、私たちを清めてくださるのです。

 

私たちは、キリストの姿に日々変えられていくとあります。Ⅱコリント人3:18をお読みします。

3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 

私たちクリスチャンは、日々変えられていきます。生まれながらの私たちは、神様に反抗する者でした。でもイエス様を信じて新しくされました。そしてさらに、そこから、もっと変えられていきます。キリストと同じ姿にとあります。イエス様のお考え、思い、イエス様のふるまいをするものと変えられていくのです。それが約束です。それは、御霊なる主の働きによるあります。そうです。聖霊様がこれをしてださいます。人間的な努力ではないのです。感謝ではないでしょうか。