· 

わたしの霊をすべての人に注ぐ

テキスト

使徒の働き2:1-4

2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。

2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。

2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 

イエス様が死からよみがえられた復活の日から後のできごとについて、しばらく聖書から学んでいます。使徒の働きでは、その後のことが詳しく記されています。わたしたちは、今年、5/19にペンテコステを迎えます。2000年前のこの日に特別な事が起きました。今日はこのことを見ていきましょう。

 

(1)ペンテコステのできごと

①特別な聖霊の激しい注ぎ

もう一度、使徒の働き2:1をお読みします。

2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。

 

イエス様が、弟子たちにエルサレムで祈って待ち望むようにと言われてから、10日が経ちました。その日は五旬節の日でした。五旬節とはどんな日のことでしょうか。

 

 

民数記28:26をお読みします。

28:26 初穂の日、すなわち七週の祭りに、新しい穀物のささげ物を主に献げるときには、聖なる会合を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。

 

聖書には三大祭りが決められています。神様が定められたのです。過越しの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りです。実際にはもっと祭りがありますが、大きなのはこの3つなのです。

 

過越しの祭りは、小羊が殺されて、その血が各家々の門柱と鴨居に塗られました。これはイエス様の十字架の死を表しています。その血を表しています。実際、その過越しの日にイエス様は十字架にかかられました。イエス様はその3日目の日曜日に復活されました。

 

七週の祭りは、過越しの安息日の次の日、すなわちその日曜日に初穂の祭りが起点となります。その初穂の祭りから数えて50日目に行われました。この時期から小麦の収穫が始まります。その最初の穂、初穂の束を神様に捧げて祭りをしたのです。ですから、50日を数えるという意味で五旬節とも呼ばれました。英語ではペンテコステと言います。旧約聖書では7週の祭りと記されています。

 

この日から小麦の収穫が続いていくのです。この日で終わるのではありません。この日から続いていくのです。これは、ペンテコステの出来事を通して大収穫が続いていきますよという神様のご計画がここに入っているということを示しています。実際にこの後の聖書の記事を読むと、まさしく、たましいの大収穫をもたらされていることがわかります。

 

その前に、このペンテコステの日に起きた出来事を見ていきましょう。

 

②聖霊が語らせるままに他国のことばで

もう一度、2:2-4をお読みします。

2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。

2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 

このことは突然始まります。天から激しい風が吹いてくるような響きが起こりました。私たちは、沖縄の地に住んでいますので、激しい風をよく経験します。「ビュー~、ゴー」と言葉では表現が難しいですが、ものすごい音を立てるわけです。同時に、あちらこちらのドアや窓がガタガタと音を建てます。

 

でもこの時は物理的な風ではありませんでした。部屋の中に響いてきても何一つ吹き飛ばされることはありませんでした。この激しい風は聖霊様でした。これは聖霊様の力を表していますね。聖霊様は静かに音を立てずに下って来られることもできたと思いますが、ものすごい音を伴って下って来られました。これは聖霊様の一つのご性質を表すためでした。それは力です。偉大なる神の力を持っておられるということです。

 

聖霊様は、音だけでなく、目に見える現れをもたらしてくださっています。炎のような分かれた舌です。誰の目にもそれが見えたのです。そして一人一人の上にとどまって、その舌、くちびるを語らせるままに、違う言葉を語らせてくださいました。しゃべっても、しゃべっても外国語が口から飛び出してきました。

 

一番びっくりしたのはそれを受けた本人たちだったでしょう。今まで聞いたこともない、しゃべったことのない言葉だったのです。しかしその言葉は、意味のある言葉でした。本人たちには意味はわかりませんでしたが、これが神様を賛美するもの、礼拝するものであることは心の中で分かったのです。ですから、異言を導かれるままに語り続けて祈っていたのです。その部屋中がものすごい声で満ち溢れていました。大騒音のようになっていたと思います。最初は、大きな風の音、そして異言の大騒音です。

 

③人々に気づかせるため

その大きな音には、意味がありました。人々に神様の御業を知らせるためだったのです。

使徒2:5-13をお読みします。

2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、

2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。

2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。

2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。

2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、

2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、

2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」

2:12 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。

2:13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。

 

ここに大勢の人々が集まってきたとあります。大勢の人々が驚いて集まって来る音とは、どれくらいの音でしょうか。お隣さんがびっくりして駆けつけるならわかりますが、大勢の人々が集まってきたのです。エルサレム中の一人一人に聞こえるように、ものすごい激しい風の音が響いたと思われます。

 

それは耳だけでなく、その内側、心にも届きました。これはただ事ではないぞと思いました。その後しばらくすると、大きな群衆の声が響いてきました。「なんだ、なんだ、何が起きているのか」互いに声を掛け合って集まってきました。

 

この最初の大きな風の響き、そして外国語で語る異言、それは聖霊様が人々を集めるためのご計画でもありました。集まって来た人々は世界中の各地方に住んでいたユダヤ人たちでした。三大祭りのひとつである、五旬節に合わせて旅をして集まって来ていたのです。彼らは先祖代々、各地に長く住み着いていました。その土地土地の言語を話していたのです。

 

ところが、普段使っているその土地の言語が響いてきたのです。そして神様を賛美していました。神様のなされた御業を語っていたのです。

 

人々は驚いて言いました。私たちしか知らない言葉で話しているこの人たちはいったいどうしたのか。お酒によっているのか?

 

この質問にすかさずペテロが立ち上がりました。そして答えました。

 

(2)ヨエルの預言

①ヨエルの預言

使徒2:14-18をお読みします。

2:14 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。

2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。

2:16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。

2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。

 

ペテロは言いました。「今あなた方が見ているこの出来事は、酒に酔っているのではありません。これは預言者ヨエルによって語られたことが実現したのです。」

 

そしてそのヨエルの預言を読み上げたのです。今、神様の霊、聖霊が注がれて、彼らは異言を語っているのですとペテロは大胆に語ったのです。

 

②終わりの日に、すべての人に神の霊を注ぐ

ここで、終わりの日とあります。聖書にはたびたび終わりの日、その日その時、という言葉が登場します。イエス様もマタイ24章に代表するように、終わりの時について語っておられます。でもイエス様が語られた終わりの時は、この弟子たちのペンテコステの日のことを言われたのではないのです。まさしく、最終的な世の終わりの時について語っています。

 

ペテロがヨエルの預言が実現したというのは、その預言の一部が実現したということだと多くの研究者は考えています。ということは、もう一度、終わりの時に神様が激しく霊を注がれるときが来ると信じます。

 

ヨエルは、神の霊は誰に注がれると言っているでしょうか。そうです。すべての人にです。娘や息子、青年や老人、しもべもはしためもとあります。年齢や地位、身分も関係ありません。すべての世代に、すべての人々にということです。ハレルヤ、感謝ですね。

 

④預言、まぼろし、夢

神の霊が注がれるとどうなると言っていますか。預言、幻、夢と書かれています。これは、一言で言うと、神様の語りかけ、啓示を受け取るようになるということです。

 

クリスチャントゥデイというクリスチャン向けのネットの情報サイトがあります。その中に、「イエスの夢を見て救われる人々」という記事を見つけました。

 

エジプトでのできごとです。エジプトのクリスチャン人口は約10%くらいで1000万人いるそうです。中東地域では最もクリスチャンの比率が多いのです。その中にあって「イスラム教いのち」という人がほとんどで、それから反れる人は殺しても惜しくないという考え方を持つ人が多いそうです。家族の中にキリスト教を信じる者が出ようものなら、家族の手によって殺されることも多いそうです。「名誉の殺人」とも呼ばれて、ある国では捕まっても減刑がなされると言います。

 

ある一人の青年がイスラム教からクリスチャンになりました。すると、それを聞きつけた従弟のモスタファは、彼のことを調査するために、こっそりキリスト教会の礼拝に忍び込んだというのです。そして、真実を確かめた上で殺害しようと計画していたのです。ところが、教会の賛美や祈りを聞いていくうちに、神様のご臨在に触れたというのです。

そして、従弟をつかまえて言いました。「自分は君を偵察するために来たのだけれど、自分のほうが間違っていたのかもしれない。なぜ君がクリスチャンになったのか聞かせてくれ」と言って飢え渇きが起きたというのです。そして従弟から直接イエス様のことを聞いて、福音にどっぷりとつかったというのです。

 

そして、その夜、モスタファはベッドに入ると、イエス様の夢を見たと言うのです。イエス様が十字架にかかっておられたというのです。そして十字架の上から彼に語りました。「わたしはあなたを愛していますよ。そのためにこのいのちを捨てました」

 

彼は夢でイエス様の語りかけを受けたのです。そして次の日に従弟のところに行って、イエス様を信じ、イエス様に従っていく決心の祈りをしたそうです。彼も従弟と同様に、クリスチャンとして歩み始めたというのです。夢を通して神様の語りかけを受けたわけです。すごいですね。

 

米国フラー神学校というところで、イスラム教の背景を持つキリスト教徒600人を対象にアンケートをとったそうです。なんと、その中の25パーセント以上が、夢や幻を見たことで改宗に導かれたと回答したそうです。1/4の150名近くが夢と幻によってイエス様に導かれたということですね。

 

今の終わりの時代、夢と幻によって神様の啓示がどんどん起こっているということです。しかも、イエス様を信じていない人にも神様が啓示をくださっているということなのです。ハレルヤですね。

 

⑤聖霊の注ぎに酔う

使徒2:13に、「人々は、酔っぱらって外国語にような言葉をしゃべっているのではないか」と言う人々がいたというのです。実は、彼らはお酒に酔っていたのではなく、聖霊に酔っていたのです。

 

1994年の出来事です。カナダのトロントで、トロントブレッシングというリバイバルが起きたことは有名な話です。ランディ・クラークという先生が聖霊に満たされるうちに、聖霊に酔ったようになったと言います。すると笑いが注がれてきて自分では抑制できずにずっと笑っていたというのです。この話を教会でしたところ、何と教会員皆に同じように注がれて、爆発的に広がっていったというのです。これがこのトロントブレッシングの始まりだったというのです。

 

このトロントブレッシングの聖会に参加された一人の牧師先生が沖縄に来られました。すると、その恵みが沖縄にもやって来たのです。その先生が祈られると、祈ってもらった人は笑い転げて止まらなくなってしまいました。あっちでもこっちでもそれが起きていました。

 

聖霊が注がれると、このように聖霊に酔うという出来事が時々置きます。少し、酒に酔うというのと似ています。周囲の目が気にならなくなり、笑い転げたり、ダンスをし始めたり、パーティのようになったりするのです。弟子たちもある意味でこの聖霊に酔うという体験をしたのだと思います。

 

(3)聖霊のバプテスマを受けるために

①与えてくださいと求める必要がある

私たちは、どのようにして聖霊のバプテスマを受けることができるでしょうか。ルカ11:9-13をお読みします。

11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。

11:12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。

11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

 

ここで、「求めなさい」とイエス様は言われました。求める人が受けることができますと。そして、たとえとして小さな子どもが父親に魚を求める姿、卵を求める姿をイメージさせたのです。

 

あるお父さんと小さな子供が、ある街の通りを、手を繋いで歩いていました。すると、小さな子どもが、「お父ちゃん、あの焼いたお魚、とってもいいニオイするね。とってもおいしそうだよ。買ってちょうだい。食べたいよ。お父ちゃん、買って、買って」とねだっている様子があります。お父さんが言います。「そうだな。しばらく歩いたからお腹空いたね。よし、買ってあげよう。一緒に食べようか」と言って、きっとその後、すばらしい親子関係を育む時間になったのではないでしょうか。

 

ここで、この小さな子どもは、どれくらいお父さんにこのお魚を求めたでしょうか。1時間も、2時間も粘って粘って、地団駄も踏んで、「ちょうだいちょうだい」と何百回も言って求めたのでしょうか。天の父なる神様は、そんなけちなお方ではないとイエス様は語られました。「そんなにほしけりゃ、ほれ、魚の代わりにへびでも食っておけ」なんていう、ひどい仕打ちはなさらないのです。神様は愛と憐みの神様だからです。正しく誠実なお方だからです。へびやサソリは危険なものの代表、敵の象徴です。神様はそんなものはお与えにならず、聖霊様をプレゼントしてくださるのです。

 

ここでイエス様が、小さな子どもをたとえに出してこられたことは、そのことを表していると思います。「わたしは喜んで与えますよ」ということです。「聖霊のバプテスマをください」、と求める人々にはおしみなく与えてくださるのです。最初にまず、その神様への信仰を持ちましょう。神様は恵み深いお方、私に聖霊のバプテスマを与えてくださるという信仰です。

 

そして次に、求めることです。イエス様が求めなさいと言われたのです。ですから、求めましょう。飢え渇いて求めることです。「与えられたらいいな」ではなく、「主よ。どうしても必要です」と飢え渇いて求めていきましょう。主は、そうすれば与えられますと言われました。

 

今日はペンテコステの出来事について見てきました。イエス様が、待ち望んでいなさいという命令を弟子たちに言われましたが、弟子たちは忠実にそれを守りました。すると10日目に天から聖霊が下られたのです。そして異言を語ったのです。

 

この騒ぎを聞きつけた人々が大勢集まってきました。ペテロはこの出来事は、ヨエルの預言に記されたものだと言いました。

 

そしてヨエルの預言はまだ終わっていません。終わりの時にと言われているからです。そして今もなお、聖霊様は注がれ続けています。約束はすべての人にということです。ですから、私たちは、信仰を持ち、期待をもって聖霊のバプテスマを求めていきましょう。