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テキスト
ルカ19:41-44
19:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
19:42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
19:43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」
(1)涙を流されたイエス様
①都のために泣かれた
今日はイエス様が泣かれる、涙を流されたという不思議な出来事について見ていきましょう。神の子イエス様も、神の子でありながら涙を流されるほど悲しみを味わわれるのだということがわかりますね。
イエス様が涙を流された記事が聖書には2か所に記されています。一度目は、友人ラザロの死を悼んで涙を流された場面です。死が人と人とを別つ、悼みを伴うものであることを深く味わわれたのです。そしてラザロをよみがえらされました。
二度目は今日のテキストにあるように、エルサレムというイスラエルの都のために泣かれました。イスラエルの民のために泣かれました。イエス様は民のために、なぜ泣かれたのでしょうか。それは、彼らがあまりにも父なる神様のお心から遠く離れていたためでした。そしてその結果としての実を刈り取ることになることをイエス様は知っておられました。そのやがて来ようとしているエルサレルの破壊の状況、敵に攻撃される状況を預言的に見ていました。
実は、イスラエルの民が神様のお心を損ねて遠く離れるということは、過去に何度も何度もあったのです。何度も何度も父なる神様を悲しませることをしてきたのです。
②めんどりのように集めようとした
エルサレムについて嘆かれた様子は、マタイ23章にも記されています。マタイ23:34-39をお読みします。
23:34 だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。
23:35 それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。
23:36 まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。
23:37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
23:38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
23:39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」
ここでイエス様は神様のお心から遠く離れている、頑ななパリサイ人たち、律法学者たちについても嘆いています。「あなたたちは先祖たちが行った悪い行いをそのまま引き継いでいるではありませんか。これまでも父なる神様が遣わされた多くの預言者を迫害して殺してきました。あなたたちはその子孫です。でも、報いがこの時代に訪れます。わたしはめんどりがヒナを集めるように、あなたたちを集めようと努力してきたことを忘れないでいなさい。あなたたちが、そのことに気がついて、わたしを迎えるその時、わたしは帰って来る」と言われました。
旧約時代においては、ここに示されているように、何度も何度も預言者たちが神様から遣わされてお言葉を伝えました。しかし、頑なな王様や長老たちは彼らを迫害してきたのです。北イスラエルにおいては、神様のお心に従わないどころか、ほかの偶像の神々を拝んでいたのです。遣わされた預言者も命がけでした。
南のユダ王国も次第にほかの偶像を拝むようになってきます。その時のことをイエス様が語られました。バラキヤの子ザカリヤのことが言われています。そこを見てみましょう。
(2)預言者ザカリヤの死
①ヨアシュ王を惑わせたユダの首長たち
Ⅱ歴代24:17-20をお読みします。
24:17 エホヤダの死後、ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。
24:18 彼らは父祖の神、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えた。彼らのこの罪過のゆえに、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。
24:19 彼らを主に立ち返らせるため、預言者たちが彼らの中に遣わされた。預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった。
24:20 神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤをおおった。彼は民よりも高いところに立って、彼らに言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ主の命令を破り、繁栄を逃がすのか。』あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」
ここにひとりの王が登場します。BC800年ごろの話です。この王はヨアシュという王様ですが、エホヤダという大祭司の後ろ盾というか、バックアップを失ってしまうと、その神様への信仰も揺らぐようになってきます。この大祭司エホヤダは、唯一の創造者なる神様への信仰をユダ王国に取り戻すために尽力した人です。
ある時、神様はその先祖であるダビデ王に約束しました。「あなたの世継ぎの子孫から王位が取り去られることはない」と。しかし、一時、王位がダビデの血筋から奪われていました。
ヨアシュの祖母アタルヤが王となって国を支配していたのです。その支配は、アシェラ像を拝む偶像崇拝だったのです。そこから大祭司エホヤダは、まだ7歳だったヨアシュを王として立てて王国を取り戻したのです。
しかし、やがて大祭司エホヤダが亡くなると、そのバックアップを失ってしまった今こそがチャンスとばかりに、偶像崇拝組の首長たちが王の周りに集まってきました。なんと、王にゴマをすって、王をおだてて、王を伏し拝んだのです。気分良くなった王様はなんと彼らの言うことを聞くようになったのです。神様の教えに耳を傾けなくなってしまいました。このアシェラ像を拝むようになってしまいました。ヨアシュ王は権威欲、権力欲、名声欲に弱かったと言えますね。
でも神様は、このヨシュア王が立ち返ることを願って祭司ゼカリヤを遣わしたのです。『あなたがたは、なぜ主の命令を破り、繁栄を逃がすのか。』
②石で打ち殺されたゼカリヤ
ところが、王様もその取り巻きたちも耳を貸すことはなかったのです。この祭司ゼカリヤを石で打ち殺してしまいます。その続きⅡ歴代24:21-22をお読みします。
24:21 ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、王の命令によって、主の宮の庭で彼を石で打ち殺した。
24:22 ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意を心に留めず、かえってその子を殺した。ゼカリヤは死ぬとき、「主がご覧になって、責任を問われますように」と言った。
ヨアシュ王は、小さいころから自分を大切に育ててくれた大祭司エホヤダを裏切ってしまいます。その子孫である祭司ゼカリヤを殺してしまったからです。自分の欲によって神の声を消してしまったのです。神よりも自分があがめられることを求めたのです。これは偶像礼拝の罪と同じですね。ガラテヤ書5章に示す肉のわざの一つです。
彼の王位は40年でしたが、最後のほうで大きくつまづいてしまします。この出来事は、私たちの信仰にとっても大きな戒めとなっていると思います。「主よ。私たちの信仰を、いのちの最後に至るまで忠実なものとならせてください」と祈らずにはいられません。この箇所に触れる時にいつもそう感じます。
(3)立ち返れ
①イスラエル人の背信
イスラエルにも、ユダにも神様は何度も忠告を語り、警告を与えました。「このままではお前たちはこの国から追い出されることになる。滅びてしまう。」そんな中、預言者エレミヤも神様からのお言葉を伝えます。
エレミヤ4:1-4をお読みします。
4:1 「イスラエルよ、もし帰るのなら、──主のことば──わたしのもとに帰れ。もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら、
4:2 また、あなたが真実と公正と義によって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。」
4:3 まことに、主はユダの人とエルサレムに、こう言われる。「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。
4:4 ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」
「わたしのもとに帰って来なさい。忌まわしい偶像を捨ててわたしのところに帰って来なさい。そうすればあなたは祝福のど真ん中に留まりますよ。形だけの割礼ではなく、心の割礼を受けなさい。」そのようにイスラエルにも、ユダにも親しく語られました。
割礼というのは、生まれたばかりの男子に施す儀式です。神様を信仰する民族としてのしるしとして8日目の幼子に施されます。男の子の性器の先端の皮をナイフで切り取ってしまいます。これは私たちは天地創造の神を信じる民であるという証になっています。今でもユダヤ人はこの儀式、割礼を受けさせます。でもこの時、神様はただのしるしや形だけでなく、心を伴う割礼を受けなさいと言われたのです。形式的ではなく、まごころから神に仕えなさいと言われたのです。
私たちは新約時代に生きるクリスチャンです。ユダヤ人ではないので、割礼を受ける必要はありません。しかし、この心の割礼を受けるということを求められていることがわかります。
②私たちが立ち返ることを願われる神
神様は、イスラエル王国およびユダ王国が神様に立ち返ることを強く願われました。同じように、この地上に生きる私たちが神様に立ち返ることを切に願っておられます。
神様に立ち返ることなしに、罪赦されて救われることはないからです。神のひとり子なるイエス様はそのためにこの地上に来てくださいました。
ヨハネ3:16をお読みします。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神様は、人々が立ち返って神様の祝福のど真ん中を歩むことを切に願っておられます。そのためにイエス様は来られて十字架にかかられ血を流し、そして3日目によみがえられました。この大きな神様からのプレゼントはすべての人に提供されています。これを受け取った人は本当に幸いな人です。奇跡と思うほど貴重なことです。まだほとんどの人は受け取っていません。でも神様はこのことを切に願っておられます。
私たちは、イエス様と同じ心をもって人々と接していきましょう。神様の願いをいつも心に思って人々を交わっていきましょう。神様の願いは人々が神様に立ち返ることです。
イエス様はエルサレムに入られるとき、エルサレムの都を思い、涙を流されました。聖書にある過去の様々な出来事が思い出されたのです。そしてやがて来る都の滅びを思いました。その願いは、人々が神様に立ち返ることでした。そしてその願いは今も同じです。私たち一人一人を思って熱い願いを持っていらっしゃいます。その思いを私たちも共有していきましょう。
イエス様はもう間もなく帰って来られます。遠い将来ではないのです。もう間もなくです。イエス様を知らない人々にとっては、その時は、恵みと救いの時ではないのです。さばきの時となることがわかっています。
今、イエス様は天においてこの地上をどう見ておられるでしょうか。熱い願いをもって見ていらっしゃいます。涙を流して祈っておられます。「わたしのところに帰って来なさい」と一人一人を見ておられます。その同じ思いを私たちも持っていきましょう。