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あなたの心を見守れ

テキスト

マルコの福音書7:18-23

7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。

7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、

7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、

7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

 

(1)生まれながらの人の性質

皆さん、天地創造の御業がなされた時、神様は私たち人間のことをどのように言われたか知っていますか。「非常にすばらしい」と言われました。そして、私たち人間との交わりを楽しまれたのです。神様は私たちとお交わりしたいと願っておられます。それは今も変わらないのです。そしてわたしたちを豊かに祝福したいとたえず願っておられるお方です。

 

しかし、アダムとエバが罪を犯したときから、私たちと神様との交わりが断ち切れてしまいました。アダムとエバからその罪ののろいを引き継いでいるのです。

 

しばらく前に、礼拝で肉の働き、肉の行い、肉のわざと呼ばれるものがあると学びました。それは生まれながらに私たちが持っている罪を犯す性質です。ガラテヤ5章にそのことが記されています。今日のテキストでは、イエス様も同じように、私たちを汚すものがあると教えられました。

 

①パリサイ人、律法学者の叱責

どういう場面でそのことを語られたのでしょうか。テキストの少し前の部分に出てきます。パリサイ人たち、律法学者たちが弟子たちを責める場面が出てきます。イエス様の弟子たちが、洗わない手でパンを食べているのを見たからだとあります。

 

マルコ7:1-5をお読みします。

7:1 さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。

7:2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚(けが)れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。

7:3 パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、

7:4 市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。

7:5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」

 

パリサイ人や律法学者たちは、一般のユダヤ人の上に立つ人々です。そして聖書の律法について指導的な立場にある人たちでした。しかし、長い年月経つうちに、自分たちの決まりやしきたりがたくさん付け加えられていったのです。聖書に書いて無いものもたくさんあったのです。手の洗い方や、洗う順序や洗う回数など細かい規定を定めて、このようにしなさいと人々を指導していたのです。

 

②人を汚すもの

これらのパリサイ人たち、律法学者たちの非難に対して、イエス様は何とおっしゃったのでしょうか。「あなた方は先祖の教えを教えたり、良く守ったりしている。しかし、それは何と父のお心から遠く離れていることか」そのようにして彼らを嘆かれたのです。

 

自分たちが決めたしきたりを重んじるあまり、神様の愛とあわれみがないがしろにされていますねと言われたのです。そして言われました。「洗わない手でパンを食べてもその人を汚しません。だから大丈夫ですよ。人を汚すものは、口から入ることではなく、ほかにありますよ」を言われました。

 

弟子たちもそのことがよくわかりませんでした。イエス様に聞いたのです。すると、イエス様は、内側から出てくるもの、心の中から出てくるものが人を汚すのだと言われたのです。心の中から出てくるものすべてではありません。肉のわざに関するものです。罪の思いを心に抱くところから始まります。そこから出てくるものが人を汚すといわれました。

 

③人を汚すもののリスト

汚すものリストをイエス様はあげてくださいました。全部で13個あります。嫌というほどたくさんありますね。それほど私たちが罪深いということです。でも、目を背けずに、しっかりと見てみなさいとイエス様はここにリストを上げられました。その一つ一つのためにもわたしは十字架で血を流しましたよと言っておられます。

 

 

ある先生はこれを4つに分類できると言いました。まず、一般的な罪です。これは、悪い考え、悪行、愚かさです。愚かさというのは、前の訳では愚痴となっています。英語ではfoolishnessとなっています。不平不満を言うこと、愚痴をこぼすことです。これも私たちを汚すものだと主は教えておられます。

 

だれかに不平不満をぶちまけた時、「あー。すがすがしく心が軽くなった」と言う人がいるでしょうか。ますます気分は暗くなりますます重たくなります。不平不満が倍増する感じです。愚痴はこぼすほど愚痴があふれてきます。これは悪循環です。その人を汚しているということが良くわかります。愚痴とクレームとは違います。愚痴は、的外れな自分の思い込みです。

 

2つ目は性的な不道徳です。淫らな行い、姦淫、好色です。神様が定めた健全な性欲からかけ離れたものです。神様の定めた秩序を飛び越えて抱くものです。神様は男女の結婚を大事にしておられます。神様はその秩序を乱すことを悲しまれることが良くわかります。

 

3つ目は物欲に関することです。盗み、貪欲、欺きです。自分に与えられた分を越えてほしがることです。その時に間違いが起きます。でもこの物欲は、大きな犯罪にならないまでも誰にでもあります。特別なことではないのです。ですからイエス様はリストアップされたわけです。

 

4つ目は、他人への良くない思いとその行動です。殺人、ねたみ、ののしり、高慢です。人間関係における罪の思いといってもいいでしょう。殺人とありますが、これは殺意をもつこと、敵意を持つこと、これから始まります。先週そのことを学びました。敵意を捨てて赦しましょうと学びました。

 

イエス様は、信じる者たちがこれらの肉のわざを離れて清さの中を歩むことを願っておられます。ですから、わざわざリストアップされました。信じた後も、罪を犯すことがあります。どうしたらいいのでしょうか。「イエス様の十字架の血で赦されて救っていただいたのに、また罪を犯してしまった、ああもう私はだめだ」と言うのでしょうか。いいえ。それでもイエス様は「わたしの十字架の前に出てきなさい。わたしの流したその血をもう一度仰ぎなさい」と言われるのです。私たちは、イエス様の前に悔い改めることをすればいいのです。

 

悔い改めるとはなんでしょうか。ただ「ごめんなさい、赦してください」と告白することではありません。十字架の前に出て、イエス様の十字架の血を仰ぎ、罪を告白し、罪を捨てる決心をすることです。そして赦しを求めることです。私たちは、毎日、自分を点検して、もし罪があればイエス様の十字架の前に出ていけばよいのです。このことを毎日していきましょう。そして私たちの足を洗っていただきましょう。

 

ローマ6:23をお読みします。

6:23 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

罪を持ったままでは神様の前に出ることはできません。感謝なことにイエス様がその罪の支払いをしてくださいました。本来の罪の支払いは、私たちの死です。これは永遠のさばきのことを言っています。永遠に神様と絶縁された世界に行くことです。これが死です。

 

しかしイエス様がこの罪を解決してくださいました。ハレルヤ。私たちには永遠のいのちが与えられています。なんと感謝な事ではないでしょうか。先週もお読みしましたが、今日もお読みします。ヨハネ10:9をお読みします。

10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

 

イエス様は、私たちの人生をみじめなものにしたくないのです。私たちの人生が豊かなで生き生きとしたものとなることを願っておられます。牧草を見つけると書かれています。私たちに必要なものを与えてくださると受け取ることができます。

 

ですから、せっかく与えられた永遠のいのちを台無しにしないように注意することが必要です。このいのちは私たちの人生を豊かなものにするからです。どのようにすればいいのでしょうか。

 

(2)心を見守る

①いのちの水が湧き出る

箴言4:23をお読みします。

4:23 何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。

 

私たちには、守るべきもの、ガードすべきもの、見張るもの、見守るものがありますよと言っていますね。それは、私たちの心です。心の内側にどんなものがあるのか、よくよく点検し、見張る必要があります。私たちの心は、いろんなことで絶えず揺れ動きます。うれしくなったり、悲しくなったり、喜んだり、怒ったり、感動したり、落胆したりと感情も揺れ動きます。

 

その内側に悪いものが入っていれば、さきほど言ったように悔い改めて清めていただく必要があります。しかし、悪いものが入って来ないように守る必要があります。私たちの目も耳も絶えずものすごい情報にさらされているからです。いろんな情報が飛び込んできます。でもそのすべてをそのまま受け入れていくと心が汚されていくのです。私たちを汚そうとする悪意のある情報もあるからです。敵の働きと言ってもいいでしょう。敵とは、サタンのことです。

 

ある時は、目を閉じ、耳を塞ぐことも必要です。悪いものは見ないように、悪いものは聞かないようにしましょう。私たちの足をそういう場所に近づけないようにしましょう。私たちは誘惑に弱いからです。不必要な誘惑には近づかないことが大事です。

 

自分の心が汚されたと感じた時、なぜ汚されてしまったのかよくよく吟味してみましょう。ああ、あの情報を聞いてしまったことが原因か、あの情報を見てしまったことが原因かとわかってきます。これは経験的に学んできます。そして聖霊様に教えてもらいながら、私たちは前に進んでいきましょう。

 

②聖霊様が住まわれる

Ⅰコリント3:16をお読みします。

3:16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

 

私たちの内には聖霊様が住んでくださっています。そして聖霊様が住んでくださっている私たちのことを、神様は神の宮、聖霊の宮だと言っておられるのです。ハレルヤ、感謝なことではないでしょうか。かつて、私たちは、神を知らない者、神に反逆する者、反抗するものでした。しかし、憐みのゆえに、聖霊の宮としてくださったのです。私たちの内に住んでくださっているのです。そしておっしゃいます。「わたしが一緒にいるよ。」

 

聖霊様が一緒におられるということは、ただごとではないですね。すばらしいことがなされるのです。なんと実を結ぶことができますよと言っておられます。

 

③聖霊様の実を結ぶことができる

ヨハネ15:5をお読みします。

ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 

多くの実を結ぶと約束してくださっています。ブドウの木のただの枝ではないのです。葉っぱだけを茂らせる枝ではないのです。その先に実を結ぶことができますよと言っています。どんな実を結ぶのでしょうか。イエス様はここでブドウの実を例えて言っていますが、これはたとえで話されています。実際にはどんな実のことを言っているのでしょうか。私たちを通して神様に栄光が帰されることですね。この実を神様はどれほど喜ばれるでしょうか。

 

さらに聖書は、御霊の実について述べています。ガラテヤ5:22をお読みします。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 

ここに、御霊の実とあります。最近よくガラテヤ5章を開きますが、前半では肉のわざ、肉の行いについての説明がありました。後半は御霊の実です。9つの実について述べています。

 

私たちが聖霊様に頼って生きていくとき、聖霊に満たされて歩むとき、御霊の実を結ぶことができると約束されています。9つあります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。ハレルヤ、いつでもこの実が欲しいですね。いつでもこの実を結んでいたいですね。これがイエス様を信じる者たちの目標です。

 

ここに記されている9つの実を良く理解するためには、その反対のことを想像してみるといいと思います。愛の反対は何でしょうか。無関心や無慈悲な心ではないでしょうか。喜ぶことの反対は何でしょうか。失望や絶望ではないでしょうか。

 

喜びって自然に湧き起こる感情ではないのでしょうかという人もいるでしょう。神様はイエス様を通して莫大な恵みを注いでくださいました。そのことを信じているなら、どんな状況の中にあっても喜ぶことができますよと聖書は言っています。

 

寛容の反対は何でしょう。不寛容な心、赦さない心です。親切の反対は何でしょう。不親切な心です。善意の反対は何でしょうか。悪意ですね。誠実の反対は何でしょうか。不誠実です。いい加減なふるまいです。柔和の反対は何でしょうか。頑な心です。頑固、頑迷な心、曲げない心です。

 

もし、この9つの御霊の実と反対の心が私たちの内に立ち上がっているなら、危ないです。自分の心が守られていないということになります。聖霊様にお願いしましょう。助けていただきましょう。聖霊様はいつでも助けてくださいます。そして御霊の実を豊かに結ぶ者とならせていただきましょう。