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十字架の血は敵意を取り除く

テキスト

エペソ2:16

2:16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

 

今日は、イエス様の十字架で流された血についてもう一度焦点を合わせていきましょう。

 

(1)血潮の力

①いのちをもたらすイエスの血

イエス様がこの地上に来られた目的は何だったでしょうか。それは明確でした。この地上に神の国をもたらすことでした。私たちを罪から救って神様のいのちに与らせることでした。そして言われたのです。「悔い改めて福音を信じなさい」と。

悔い改めて福音を信じた人は莫大な恵みをもらいました。そしてその恵みのチャンスは今も継続しているのです。だれでも受け取ることができるのです。それがイエス様の救いです。

 

十字架の上で流された血潮によって救いが完成されました。イエス様が、私たちが受けるべき罪の刑罰を代わりに受けてくださいました。私たちの罪を解決してくださいました。自分の力では解決できない罪を、イエス様が解決してくださいました。

 

私たちは、いろんな罪を犯します。しかし一番根本的な罪、それは、神様への反逆、反抗です。あからさまに逆らうことではないかもしれません。でも、人は生まれながらにして神様に逆らって生きています。自分の力で生きようとします。自分の生きたいように生きようとします。神様の教えに従おうとしないのです。「自分は自分の考えで生きていきたい、誰にも指図されたくない。自分の好きなように進んでいきたい。好きなことをしたい。たとえそれが罪と言われていても、好きなことをしていたい。」 そのように人は考えて生きようとします。

 

でも、神様は、そのようには人を造りませんでした。人を造られた時、神様と交わり、神様とともに歩み、神様とともに過ごす者だったのです。「わたしが造った作品であるあなたは非常にすばらしい」 そのように神様は言われたのです。

 

しかし、人は罪を犯して神様から離れて生きる者となってしまいました。善悪の知識の実を食べてしまってからは、自分が知識と知恵を持つようになり、自分だけですべてのことを判断するようになりました。神様なしで生きていくようになりました。私たちの罪の根本はそこにあります。神なしで生きていこうというものです。

 

イエス様は、私たちの罪を解決するためにこの地上に来られました。罪があるかぎり、神様の元には近づくことができないからです。

 

②病のいやし

イエス様の十字架の恵みはそれだけではありません。その打たれた傷は、私たちの病のためでもありました。身体の病、心の病、すべてのわずらいを引き受けてくださいました。 イザヤ53:4-5をお読みします。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 

このイザヤが預言したお言葉のとおりに、イエス様は十字架に掛かられました。イエス様は罪のためのいけにえでした。私たちの代わりに神に罰せられ、苦しみを受けてくださいました。そしてそれは、私たちの病の癒し、内なる人の平安のためでもありました。

 

③清め

ヘブル10:22をお読みします。

10:22 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。

 

イエス様の尊い血潮は、罪と病のためだけではありません。さらに私たちの邪悪な良心を清めるとあります。日々清めてくださるのです。ですから、日々十字架を仰いで清めを求めていきましょう。私たちは、信じて後、少しずつ変えられていくからです。

 

(2)イエス様の十字架のことば

①父よ、彼らを赦してください

そして、イエス様の十字架の恵みは、それだけではありません。ルカ23:24をお読みします。

23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

この箇所は、イエス様が十字架にかかられた時に、十字架の上で語られたお言葉のひとつです。イエス様は十字架に掛かられた時、激しい迫害を受けました。背中を何度も鞭打たれて、肉は裂けるほどでした。

 

兵士たちから唾をかけられ、頭を殴られ、目隠しされて嘲られ、馬鹿にされたのです。頭には、いばらの冠をかむせられました。「ユダヤ人の王様、ばんざい」と言って馬鹿にするためでした。着ていた着物はくじ引きにされて、兵士たちに取られてしまいました。

 

その一つ一つをイエス様はご覧になりました。屈辱を受けられたのです。でも、彼らに対するお言葉は、ゆるしのお言葉でした。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」です。

 

天から下って来られたイエス様はすべてをご存知です。天の神様に反逆することがどれほど恐ろしいことかを十分に知っておられました。ですから、神様の憐みと赦しを求められたのです。彼らは何もわからずに行っているのですから、どうか赦してあげてくださいと祈られました。

 

 

②長崎26聖人

安土桃山時代の終わりころに、長崎で26人のカトリックの信者が十字架に掛かって殉教したことは有名です。彼らは、信仰を最後まで捨てなかったのです。それゆえに左耳を切り取られて、京都から長崎まで見せしめの刑罰のために歩かされたのです。

 

処刑の場所は、イエスが処刑された場所に似ているという理由で、西坂の丘にある麦畑で行われました。彼らは全く死を怖れませんでした。むしろ殉教することを喜びとしている様子がありました。

 

最年少だった12歳のルドビコ茨木という少年は、刑場に着くと自分が磔にされる十字架がどこにあるかを役人に尋ねました。一番小さなそれに走り寄ってそれに口づけをしたと言われています。

 

また次に年少だった13歳のアントニオは、十字架にかけられた直後、両親が改宗するように懇願したそうです。しかし彼は、逆に両親に対して入信することを勧めたと言われています。そして並んで十字架にかけられた二人の少年は、高らかに賛美歌を歌い始めたと言います。

 

さらにその歌声が続く中、パウロ三木という日本人の修道士が最後の説教を始めました。「私は何の罪も犯したわけではございません。ただイエス・キリストの福音を述べ伝え、その教えを広めたという理由だけで殺されるのです。ただ私が切に願うのは、太閤様をはじめ全ての日本人がイエス・キリストを信じて救いを受け、キリシタンとなることでございます」。

 

こうして4000人を超える民衆が見守る中、こうして26名は殉教したと言われています。

 

この26人のクリスチャンは、イエス様を信じる喜びと平安のなかで死んでいきました。彼らの内には、赦さない思いや磔にする役人たちに対する憎しみはありませんでした。むしろ、イエス様の恵みを受け取ることを願ってやみませんでした。なぜでしょう。イエス様が彼らが赦されることを願っていることがわかっていたからです。イエス様もそのようにされたからです。

 

(3)赦しなさい

①敵意について

エペソ人2:16をお読みします。

2:16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

 

イエス様の十字架は、私たちと神様とを和解させるとあります。そして敵意を取り除くとあります。敵意とはなんでしょうか。原語のギリシャ語では「エクスラ」という言葉が用いられています。英語ではhostilityという語で訳されています。これは、敵意、敵対心、反感、憎しみという意味です。これは、まさしく、多くの人たちが神様、天地創造の神様に対して抱いている感情です。でも、イエス様はその感情を解決するために来てくださったということです。

 

コロサイ人1:20-22をお読みします。

1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、

1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。

 

ハレルヤ。イエス様の十字架が神様への敵意をうち砕いてくださいました。ですから、イエス様を通して神様に近づくことができたわけです。おおわれていた目のおおいを取って下さいました。イエス様を通して神様の真実の思いを知ることができたのです。そのようにして私たちと神様を和解させてくださいました。

 

②敵意をもって赦さないことは肉のわざに生きる

しばらく前に、私たちは、肉のわざ、肉の行いについてガラテヤ書から学びましたね。その中にもこの敵意のことが記されています。

ガラテヤ5:19-21をお読みします。

 

5:19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。

 

ここで記されている敵意は、私たちの人間関係について言っています。神様との関係だけでなく、人間関係の中にある敵意を捨てなさいということです。敵意は、肉のわざ、肉の行いの代表としてあげられているからです。敵を捨てるということは、赦せない相手を赦してあげるということです。

 

②赦しなさい

イエス様も赦すことについて言っています。ルカ6:7をお読みします。

6:37 さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。

 

イエス様は言われました。「わたしが道、真理、いのちである」と。そして「わたしが門である」と言われました。

ヨハネ10:9をお読みします。

10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

 

この門には、「赦してあげなさい」という看板がかかっているように感じます。なぜならイエス様の人生は赦しの人生だったからです。わたしもあなたを赦しましたよとイエス様が言われます。

 

もし私たちが「絶対に赦さない、相手が土下座してお願いするまでは絶対に赦さない」という態度を取り続けるなら、この門を自由に出入りすることはできないと感じます。イエス様の救いをいただいても、ここで、神様の祝福の深みに入ることができなくなってしまいます。ストップしてしまうのです。イエス様の豊かな恵みの中に入っていくことも、受けることも難しくなって来ます。しかし、イエス様は言われました。

ヨハネ10:10

わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

 

私たちは、赦すことが困難なこともあります。でもイエス様の十字架を見上げましょう。イエス様が自分を十字架にかけた兵士たちや祭司長、律法学者たちを赦すことは簡単だったでしょうか。自分の命を取ろうとして苦しめている相手です。いともたやすくできたのでしょうか。ゆるし難い困難を乗り越えてイエス様は赦されました。それが父なる神様のお心だったからです。

 

もしイエス様がそのことを体験されて、そして私たちにもそのことを望んでおられるとしたら、私たちも意思をもって決断していきましょう。相手の状況に関わらず、困難な相手でも「赦します」と決断して告白していきましょう。聖霊様が助けてくださいます。私たちができないことは、聖霊様が助けてくださいます。聖霊様に頼っていきましょう。クリスチャン生活は、私たちの自分の力で生きるのではないのです。

 

先週、エゼキエルが見た神殿から流れ出るいのちの水の川について学びました。渡ることのできない、泳げるほどの流れについて学びました。自分の力でできないことは聖霊様に頼っていくことが大切です。聖霊様が御力を現わされるからです。