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荒れ地に川をつくる神

テキスト イザヤ43:19-21

43:19 見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。

43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

43:21 わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。

 

(1)イスラエルの回復の預言

①バビロン捕囚

今日のテキスト、イザヤ43章の神様の預言のことばが与えられた時の状況はどのような時だったのでしょうか。イザヤという預言者は、BC722年に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時代に南のユダ王国に生きた人です。彼は、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤなど、多くのユダ王国の王様に仕えました。

 

彼は、南のユダの民がバビロンに捕囚となって引き連れられていくこと、神様から裁かれて、北のイスラエル王国のように祖国を失うこととなる、そのような時が来ることを神様から示されていたのです。イザヤ書は全部で66章ありますが、おおざっぱに区分すると1章から39章までは神様の警告とさばきのことばを伝えています。40章から66章は、それとは違って神様の回復のお言葉が預言されているのです。

 

今日のテキストもまさしくその回復の預言です。しかもそれはイザヤが預言した時から、約200年後に起きるできごとだったのです。イスラエルの民が絶望の中に生きないように、希望をもつことができるように神様のお言葉を伝えたのです。

 

②荒れ果てたイスラエル

エレミヤ22:6-9をお読みいたします。

22:6 まことに、ユダの王の家について、主はこう言われる。「あなたは、わたしにとってはギルアデ、レバノンの頂だが、必ず、わたしはあなたを荒野にし、住む人もいない町々にする。

22:7 わたしはあなたを攻めるために、それぞれ武具を持つ破壊者たちを取り分ける。彼らは、最も美しいあなたの杉の木を切り倒して火に投げ入れる。

22:8 多くの国々の者がこの都のそばを過ぎ、彼らが互いに、『何のために、主はこの大きな都をこのようにしたのだろうか』と言えば、

22:9 人々は、『彼らが、自分の神、主の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ』と言う。」

 

預言者エレミヤは、イザヤの後の時代の人です。実際にバビロン帝国の侵略を体験した人です。その前にユダの民が悔い改めに導かれるようにと、何度も何度も呼びかけて神様のお言葉を語った人です。このお言葉は、神様のさばきを語ったお言葉ですね。実際に、ユダの王を始めとしたユダ王国の人々は滅ぼされてしまいます。この地は荒れ果てた土地となってしまいます。

 

③回復しよう

イザヤ書43章に戻りますが、神様はさばきの宣告をなさいますが、必ず回復の預言もしておられます。聖書を読むとそのことが良くわかります。民がつぶれてしまわないようにと励ましのお言葉を各所に盛り込まれていることがわかります。なぜなら、痛めつけることがお心ではないからです。悔い改めて立ち返ることを望んでおられるからです。

 

19節、「必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける」と宣言しておられます。すでに人も住まなくなった、そのような荒れ果てた地、そこを元通り回復するよ、と宣言されたのです。

 

荒野だったところに人が通るようになるということですね。だれも寄り付かなかったそのような土地に人々が集まり、また交易がなされるように栄えた土地となるということです。

 

荒れ地に川とはどんなことでしょうか。イスラエル冬の季節は雨の季節です。その時には、確かに激しい雨が降り、砂漠しかないところに川ができたりします。この川をワディと言いますが、夏の間は、完全にカラカラに渇いています。

 

この時にできる川は、悠長に水を飲めるようなものではありません。激しい流れです。あっという間に海に流れ込むのです。ここで述べている川は、もっと美しくきれいで、ゆるやかな流れですね。湧き水から流れてくるものです。これはただの自然現象ではなく、神様の超自然の川をさしています。この川はやがて到来する千年王国に実現すると考えられています。

 

④ジャッカルやダチョウ

ここに特徴的な動物が登場します。ジャッカルです。この動物はイヌ科の動物で姿、形も犬にそっくりです。別名は山犬です。小型の動物で体長が40cm~1m、体重も6kg~15kgだそうです。乾燥した草原や森林に住む動物です。荒野にも住んでいるわけです。

 

弱肉強食の一角をなしていて、狩りをする動物です。しかし、自分より体の大きい相手は狙いません。猛獣のおこぼれをねらったり、小動物を捕らえて生きているわけです。ライオンやヒョウのような猛獣と比較すると、弱い動物といってもいいでしょう。動物界からするとあまり目立たない、端っこにいる存在といってもいいでしょう。

 

神様は、ジャッカルをたびたび聖書の中に登場させます。ジャッカルをいい意味では用いていないのです。エレミヤ9:11をお読みします。

9:11 「わたしはエルサレムを石ころの山とし、ジャッカルの住みかとする。ユダの町々を荒れ果てた地とし、住む者のいない所とする。

このように、荒れ果てた世界、人も住まない世界、見捨てられた世界、そこに住む動物がジャッカルだと紹介しています。のけ者にされたような弱い立場にある者の代表と言ってもいいでしょう。

 

続いてダチョウです。ダチョウに関する聖書の別の箇所を開きましょう。ヨブ39:14‐18です。

39:14 だちょうは卵を地面に置き去りにし、これを砂の上で温まるに任せ、

39:15 自分の足がそれをつぶすかもしれないことを忘れている。野の獣が踏みつけるかもしれないことも。

39:16 だちょうは自分の子を、自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみが、無駄になることも全く気にしない。

39:17 神がこれに知恵を忘れさせ、これに悟りを授けなかったからだ。

39:18 それが高く飛び跳ねるとき、馬とその乗り手をあざ笑う。

 

ダチョウは、体長2mほど、体重135kgほどになるようです。ものすごく身体能力のすぐれた動物なのです。走ると、70km/hにもなるそうです。なんと60km/hで1時間も走り続けることができるそうです。

 

そしてものすごく免疫力が高くて、少々のケガでも、自分の免疫力で数日で傷口を直してしまうそうです。この優れた免疫力を用いて、卵からインフルエンンザウイルスの抗体を製造していたり、マスクを製造していたりします。

 

しかし、優れた身体能力のあるこのダチョウですが、欠点もあります。それは体と比して脳が小さいということです。他の鳥に比べてものすごく記憶する力がないそうです。人間が背中に飛び乗ったとしても、瞬間的にひるむそうですが、すぐにそれも忘れて普通の生活を始めるというのです。

 

神様が聖書で語っているように、自分の卵をほったらかしたりするそうです。神様がこれに知恵を授けなかったので脳が発達していないわけです。

 

これは、何でしょうか。ダチョウは、知恵や悟りのない者の象徴です。身体的な能力はあるかもしれない、けれでも知恵や悟りが無くて神様の目には愚かな者の代表といってもいいでしょう。

 

⑤神様をあがめる

神様が回復をなされるとき、どんな人たちが神様をあがめるのでしょうか。すべての人が神様をあがめるというのです。真っ先にこのジャッカルやダチョウが言われています。すなわち、のけ者にされたような弱い立場にある者でも、知恵や悟りが無くて神様の目には愚かな者の代表のような人でも、すべての人が神様の造られた川の水を飲むことができるようにしますよということですね。そしてあの恵みにあずかった者はみな神様をほめたたえるというのです。

 

この時神様が預言された対象は、イスラエルの民でした。ですから、神様が選ばれた特別な民、イスラエルの民を皆、回復させますよというお言葉なのです。

 

しかし、今に生きる私たちにとってもこのお言葉は与えられています。「わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせますよ。豊かないのちの水を飲ませてあげますよ」と言われています。それが神様の願いです。私たちに回復を与えて祝福したい、祝福したいと願っておられます。そのしるしがイエス様です。イエス様の十字架の死と復活です。

 

(2)エゼキエルの預言

エゼキエル47:1-12をお読みします。

47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。

47:2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。

47:3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。

47:4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。

47:5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。

 

これは、エゼキエルがやがて来る千年王国の神殿から流れ出るいのちの川について預言した箇所です。川の流れとその深さは4つの段階があると教えています。

 

①足首までの流れ

まず第一の流れは、足首までおおったというのです。小さ小さな小川みたいな流れです。簡単に歩きまわることができますね。反対側の岸にも簡単に歩いてわたることができます。

 

②膝までの流れ

第2段階の流れは膝に達したとあります。流れが膝に来たということは、そこが静かな池でもないかぎり、渡るのに苦労しますね。でもなんとか注意深く渡れば、渡ることができると思います。

 

③腰までの流れ

第3段階の流れは腰に達しています。これは危険ですね。身体ごと流れにもって行かれます。踏ん張ることが困難です。能力の高い人や訓練された人であれば渡ることができるかもしれません。

 

④渡れないほどの流れ

第4段階の流れはもう渡れないと宣告されています。渡ろうとするのではなく、泳いで浮き上がっていなさいということです。流れに身をまかせなさいということだと思います。

 

⑤クリスチャン生活の歩み

この第4段階の流れは何を表しているのでしょうか。私たちとどんな関係があるのでしょうか。これは私たちのクリスチャン生活の歩みについて表しています。

これは千年時代に入ってから受けるいのちの水のほかに、別の意味をも含んでいます。水の流れとは何でしょうか。水の流れは聖霊様、御霊を表していると聖書は記しています。ヨハネ7:37をお読みします。

 

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

 

イエス様を信じた人は、イエス様のくださるいのちの水を飲むのです。イエス様を信じたときに何が起こるでしょうか。いのちを受けるのです。心の渇きがいやされるのです。カラカラに渇いた心が、イエス様のいのちの水を飲んで潤って、癒されるのです。癒しを受けます。ハレルヤ。イザヤの預言の一部は、イエス様によって実現したのです。荒野のようなカラカラ、ガサガサの心がイエス様によって潤いの土地に変えられたからです。これがイエス様の救いです。

 

でも、それで終わりではありません。聖霊の満たしを受けることができます。聖霊の満たしのことを聖霊のバプテスマとも言います。

 

私たちが神様に喜ばれるクリスチャン生活を送るには、どうしても聖霊様の助けをいただくことが必要であることを先々週、学んできました。聖霊にたよる生活をするためには、この聖霊の満たしが重要です。

 

第一の流れの足首は、ほとんど自分の力で動くことができる生活です。あまり聖霊には頼りません。自分で判断し、自分の力で歩もうとする生活です。

 

第2の流れの膝は、流れの強いときは聖霊様に頼ろうとします。

 

第3の流れの腰は、一歩一歩聖霊に頼って生きようと努めています。

 

第4の流れは、もはや自分の力は何の役にも立ちません。100%聖霊に頼って、聖霊様の導かれるままに流れていく人です。自分の肉の力を捨てて、それに頼ろうとしない人です。

 

聖書は、もし私たちが願うなら、第4の流れにまで達することができると教えています。聖霊に満たされる生活です。私たちは、聖霊の満たしを日々求めていきましょう。