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御霊にたよる

【テキスト】 ローマ8:5-16、26

8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

8:14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

 

(1)自分の力で信仰生活を送ることができるか

①肉の思いは神に敵対する(7)

私たちは、自分の力で信仰を保ち、自分の力で神に喜ばれる生活をすることができるでしょうか。もちろん、自分の力で生きてきました。これからも生きていくことができると言えるかもしれません。でも、信仰生活や神に喜ばれる生活となると、どうしても自分の力ではできないのです。

 

「何ということか。そんなにへなちょろい信仰だったら、そんなへなちょこで信じる価値はあるのだろうか。これまで自分の力で生きて来たし、これからも自分の力で生きていこう。」と思うかもしれません。

 

でも、私たちの信仰、これは、神様から来たものです。自分の力ではありません。神様が目の蔽いを取ってくださいました。だから、今神様を信じることができるのです。これは奇跡です。私たちは奇跡を体験しているのです。毎日毎日、神様の奇跡の中に生かされているのです。ですから、自分の力では信仰をもつことができないのです。信仰生活も一緒です。

 

ローマ8:7-8には、

8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。

8:8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。

 

とありました。「肉」という言葉がでてきます。「肉」の思い、「肉」のうちにあるという表現がでてきます。「肉」とは一体なんでしょうか。7節をよく読むと、これは神に敵対するとあります。そして神の律法に従わないとあります。神に喜ばれないともあります。

 

「肉」とは、すなわち、私たちの生まれながらの性質ということができます。神様と出会う前の、生まれながら罪を犯す性質のことです。ここでパウロは、「肉」といっていますが、私たちの「肉体」ということもできます。私たちの肉体、すなわち体のことは、うまく管理することが大切です。どのように管理するのでしょうか。私たちの霊と心で管理します。霊と心で肉体に言い聞かせて秩序ある行動をとる必要があります。

 

人は肉体的ないろんな欲求を持っています。人間には三大欲求があると言われます。食欲、睡眠欲、性欲です。

 

今日は特にお腹が空いたといって、いつもの2倍も3倍も食べる人はいません。いつも通りの腹八分くらいでやめるわけです。もちろん、いくらでも食べることはできるでしょう。でも自分の健康のために、意識的にストップします。

 

また、今日は外は寒いし、身体も疲れているし、眠いからいつまでもいつまでも横になって寝ていようという人はいません。健康的な人は、朝になったら起きて体を動かし始めます。やるべき仕事に取りかかるわけです。

 

性的なことも一緒です。与えられた夫婦関係のなかで健全な範囲の中で関係を深めていくわけです。その範囲を超えると、夫婦関係や家庭が壊れていくわけです。だから私たちはそれを保つように努力します。

 

しかし「肉」の思いは、これらの祝福された節度ある範囲を超えようとします。そしてこの生まれながらの罪の性質は、神様に喜ばれないというのです。

 

クリスチャンになったのだから、イエス様の血潮ですべて罪がなくなったのではないのでしょうか? もちろん、「私のすべての罪を赦してください」と祈った時に、神様は私たちの全ての罪を赦してくださいました。罪を赦すことが神様のご計画であり、そのためにイエス様をこの地上に送って下さいました。でも、「罪赦されて清められた、救われた」ということと、「ずっとずっと清いままでいる」ということは別物なのです。

 

私たちがイエス様を信じて罪赦されたということは、例えていえば、「傷だらけの、錆び錆びのボロボロだった車」が、「ピッカピカの美しい新車になった」というのと似ています。感謝感激ですね。

 

でも、ピッカピカの美しい新車、これはショーケースに飾って置くためのものではありません。新車の車は毎日活用するためのものです。毎日使いますね。雨の日も、ほこりの日もあります。どろんこ道のようなところを通ることもあります。すぐに真っ黒になって汚れますね。これで新車の価値はなくなったのでしょうか。いいえ。汚れたら洗えばいいのです。また、すぐに新車の輝きを取り戻します。

 

私たちも、イエス様の十字架の前に来て毎日毎日の罪と汚れを落としてもらえばいいのです。このことを悔い改めといいます。その悔い改めの祈りをするのです。

 

私たちは、罪赦されて神の子どもとなりました。でも、この肉体をもってこの世に生きている限り、罪を犯す性質を持っているのです。これが私たちの肉です。

 

クリスチャンになっても罪を犯します。罪を犯す性質を持っています。ですから、私たちには、戦いがあります。弱さを持っているというのです。それでは、どうしたら神様に喜ばれることができるのでしょうか。

 

②御霊によって生きることができる(13)

ローマ8:13-14には、「御霊によってからだの行いを殺すなら」とあります。からだの行いとは、先ほどから出てきている肉の思い、生まれながらの罪の性質ということですね。これを殺すならということです。

 

これもなかなか自分自身の力ではできません。だから「御霊によって」と記されています。聖霊様の助けをいただいて、この肉に勝利しなさいと教えています。

 

これによって歩む人は、御霊に導かれていく人です。その人は神の子どもですよと教えています。自分の肉の欲求に従って生きるのではなく、聖霊様の導きと助けをいただいて生きるということです。

 

そのような生き方は果たして可能なのでしょうか。聖書が宣言しているので、「できます」ということです。私たちはそのように努めていきましょう。

 

③肉の行いとは

聖書はこの「肉の思い、肉の行い」についてどのように教えているでしょうか。ガラテヤ5:19-21をお読みします。

 

5:19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。

 

 

ここで聖書は、5:19で肉のわざについて言っていますね。具体的に教えています。全部で15個上げています。筆頭に来るものは何でしょうか。淫らな行い、汚れ、好色です。この3つは性的な乱れについて言っています。筆頭に来ているということは、それだけ人間にとって弱い部分だということです。誘惑が大きい、誰でも直面するということですね。

 

次の偶像礼拝、魔術は、神様に関するものです。天地創造の神以外のものに心を向けることです。日本もそうですが、世界には偶像と呼ばれるものが数えきれないほどあります。

 

それを人々は神々と呼びます。でもそれは人が造ったものです。人が手入れしたり、移動したり、設置したり、世話をします。その偶像というより人が主体です。人が動かなければ何も起きません。何も始まりません。それが偶像です。それを人々は神々だといって拝むのです。でも人が主体ですから、人の自由になるわけです。結局、自分の自由になる神、これが偶像です。でもこれは肉のわざですよと教えています。天地創造の神様は、私たち人間が自由には動かせないのです。私たち人間が神様に従うのです。

 

次の9つのこと、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、これは一体何でしょうか。私たち人間のどの部分に関することでしょうか。人間関係に関する罪のことです。これがあるところには、憎しみ合いがあり、怒りと争いが生まれてくるのです。これらも肉のわざですよと教えています。

 

最後の2つは、泥酔、遊興です。これは、心を満たすものを表しています。神様以外のもので心を満たそうとする性質です。神様は、私たちの必要をご存知です。私たちを神様の恵みでいつでも満たすことのできるお方です。もし、問題や課題があってそれを訴えて申し上げれば、それに答えてくださるお方です。その大切な泉のような存在である神様から心をそむけてほかのものに頼ることを表しています。

 

この誘惑は誰でもやって来ます。「今日はいろんなことがあって疲れたなあ。なんか心をいやす楽しいことはないかなあ」 

 

もちろん、疲れた時には癒しの時が必要です。十分休むことが必要です。でも、「神様、今日はちょっとだけ向こうを向いていてください。私は反対方向で自分の好きなことをしていますから。今日はストレス解消が必要ですから。」といって良くない動画やTV番組で心を満たそうとします。多くの人々は、お酒や夜の街で過ごそうとするのです。聖書はこれらも肉のわざですよと教えています。

 

疲れをいやすことは誰でも必要です。でも、どんなもので心を満たすのかには注意が必要です。神様はわたしがあなたのいやし主ですと言われています。

 

ルカの福音書5:12-13をお読みします。

5:12 さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」

5:13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。

 

イエス様ご自身たくさんの病人を癒やされました。そして、この全身が伝染性の強い皮膚病、ツァラアトに冒された人が来てイエス様に求めたときに、イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」といって、その皮膚病の人の体に触って下さいました。すぐに癒されました。私たちの体も、そして心もいやすのは神様のお心なのです。信じましょう。そして、イエス様の元に来るとき、元気を回復するのです。

 

以上、肉の行い、肉のわざについて15個のことについてざっと見てきました。しかし、その最後に厳粛なことが述べられていますね。「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」

 

「えー、何と言うことか、神の国を相続できないということは、神の国に入れないということか?」 聖書は、言います。「そのとおりです」と。ですから、私たちはしっかりとこのことを心に刻んで、毎日この肉のわざと戦う必要があります。肉を殺す必要があるわけです。でも自分の力ではできません。どうしたらいいのでしょうか。聖霊様にたよるのです。

 

(2)どうやって信仰生活を送るのか

①聖霊が助けてくださる

ローマ8:26をもう一度お読みします。

8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

 

聖霊様は、私たちのすべてのことを知っておられます。私たちのどこが弱いのかご存知です。ですから、私たちを助けることができるのです。私たちは、どのように祈ったらいいのかもわからず、苦しみの中で力がなくなる時があります。でも、私たちの内に住んでくださる聖霊は、深いうめきをもってとりなしをしてくださっているのです。どうしようもない時にも、私たちに代わってうめいてくださり、神様にとりなしの祈りを捧げてくださっています。なんと感謝なことではないでしょうか。

 

ヨハネ14:16をお読みします。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」

 

ここに、助け主というお方が出てきます。イエス様は助け主を私たちに送ってくださると約束されました。これは聖霊様のことです。そして実際、イエス様を信じた時から聖霊様が内に住んでくださっています。

 

この方は助け主と呼ばれています。ギリシャ語ではパラクレイトスと言います。これは仲介者、とりなし手、慰めてくださるお方、擁護者という意味があります。それが聖霊様です。

 

ですから、私たちは、聖霊様に頼ることができます。この方に信頼していきましょう。弱さを覚えた時には、正直に申し上げて、どうか助けてくださいと素直に祈っていきましょう。必ず聖霊様は助けてくださいます。

 

②神の子どもとされ「アバ父よ」と呼ぶことができる

ローマ8:15をもう一度お読みします。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

 

「アバ父」という言葉が出てきます。アバとは、アラム語で小さい子どもが父親を呼ぶときに用いる砕けた表現です。「お父ちゃん」という意味です。

 

私たちは「お父ちゃん」と呼ぶことが許されています。なぜなら聖霊様が私たちの中に住んでくださっているからです。私たちでも、他人の父親を「お父ちゃん」とは呼びませんね。自分の父親だけに対して「お父ちゃん」と言います。でも私たちの神様に対して「お父ちゃん」と呼んでいいよというわけです。私たちはすでに神様の子どもになったからです。

 

神様は、私たちをイエス様を通して救ってくださいました。罪を赦してくださり、永遠のいのちを与えてくださいました。しかし、「わたしは十分与えた、十分あなたのためにやってあげた。あとは自分の力でこの地上の人生をなんとか生きなさい」とは言われないのです。「わたしを父ちゃんと呼んでわたしに頼りなさい」と言われるのです。なんと感謝なことではないでしょうか。

 

   

 

 

 

 

 

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