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み言葉と祈り

テキスト   ヨハネ6:31-35

ヨハネ6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」

6:32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。

6:33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」

6:34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」

6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 

(1)私たちには霊の食物が必要である

①モーセのマナ

先ほどお読みした聖書のテキストの中に、モーセが登場します。モーセは、エジプトから300万人と言われているイスラエルの民を率いてきました。エジプトから出て来た先は右も左も砂漠のような荒野です。飲む水もないし、この大勢の人々の胃袋を満足させるような食べ物もないのです。彼らは何日も経たないうちに、食糧に困ってしまいました。

 

神様は、もちろんそのことをご存知です。昼は雲の柱を立てて民を導きました。夜はその雲の柱が火の柱になったのです。燃えているようでした。「大丈夫だよ。わたしはここにいるよ。わたしがあなたがたを導くよ。」そのように語り掛けてくださるような雲の柱、火の柱でした。

 

実際、神様は、奇跡をもって彼らを養ってくださいました。天からマナという食物を降らせてくださったのです。そのマナは、安息日以外は毎日降りてきたのです。不思議ですね。神の不思議に満ちていました。朝早く集める必要がありました。昼になると溶けてなくなったのです。この300万人近くの人々を毎日、十分食べて満足する量が降ってきました。このように、神様は人々を養ってくださるお方です。私たちの必要を知っておられます。

 

イエス様は、「モーセの時代、天からパンが降ってきたように、わたしもあなたがたにパンを与えますよ」とおっしゃいました。それを聞いて人々はイエス様にお願いしました。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」

 

するとイエス様は不思議なことを語られました。6:35節

「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 

 

「わたしがいのちのパンです。わたしを食べなさい」、ということです。これを聞いて人々は驚きました。「わたしを食べなさいってどういうこと? イエスさまを切り刻めということか?」

 

これはイエス様のお言葉こそいのちパンだということです。イエス様のお言葉こそ私たちを生かすお言葉だということです。イエス様を食べるということは、イエス様のお言葉をいただくということです。聞いて味わう、心に留めるということです。そしてそれを行うということです。

 

そしてイエス様のお言葉をいただく人は、決して渇かない、飢えないと言われました。モーセの時代に、人々が渇いて、飢えて死にそうになりました。イエス様を信じる人は、そのように霊的に渇いて飢えて死にそうになるようなことは決してありませんよと約束しています。

 

ですから、私たちが聖書のお言葉をいただくことは非常に重要なこと、大切なことなのです。

 

②聖書は私たちの信仰を助ける

ペテロの手紙第一2:2をお読みします。

2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

 

まるで赤ちゃんがミルクを欲しがって泣いて母親に求めるように、私たちも天のお父様にみ言葉を求めなさいと言っています。私たちの信仰は、聖書のお言葉によって強くなる、成長すると言っています。最終的に救いが完成されるようになるのです。

 

赤ちゃんは、どれくらいの頻度でミルクを飲むのでしょうか。3時間から4時間に1回授乳をすると言われます。お母さんは、夜中も起きなければならず、子育ては大変ですね。なんで3時間から4時間なのでしょうか。大人は夜は寝ているのです。赤ちゃんはなんで夜中もお腹がすくのでしょうか。それは食べている物がミルクだからですね。液体です。消化が早いのです。すぐにお腹がすくのです。

 

聖書は言います。生まれたばかりの乳飲み子のように聖書のミルクを慕い求めなさいと。もし、このミルクを飲まないとどうなるでしょうか。私たちは、栄養不足に陥ります。お腹が空いて歩けなくなります。まともな信仰を保つことができなくなります。健康的な信仰を保つには、どうしても聖書のお言葉によって養われていく必要があるのです。

 

どれだけ聖書を読めばいいのでしょうか。1日の時間も限られていますね。聖書を読む時間を確保するのが難しい人もいます。少なくとも、1章は味わうようにしましょう。できれば3章から4章を読んで1年で旧約聖書と新約聖書を読み通すことができれば栄養が体にいきわたります。

 

身体の健康にも、ある程度の食べる量が必要です。1日3食食べているといって、食パンを3等分して朝と昼と夜に分けて食べますという人がいるでしょうか。環境的にその中に強制的に置かれる場合もありますが、そうではなく自分で自主的に行っている場合は、それでは栄養不足に陥ります。どうしてもある程度の量が必要です。聖書のお言葉も同じですね。毎日味わっていますと言っても、2~3行読んだだけでは絶対量が足りないのです。

 

(2)どのように聖書を読むか

私たちは、聖書をどのように読んでいきましょうか。

①通読しましょう

気になっているところや、好きなところから聖書を読んでもいいのですが、聖書は、1冊全体を読み通すことが大切です。そうすることで、神様のお心をバランスよく理解することができるからです。一部分だけを何回も読んでも、全体を捉えることができません。

 

聖書通読表というのがあります。その日読んだ場所にしるしを付けていくものです。創世記1章を読んだら、その時に創世記の1と書かれているところにしるしをつけます。そうすると、自分がどれくらい読んできたのか、また、どれくらいのペースで読んでいるのかを把握することができます。

 

②聖書を読む時間を確保しましょう

そして、毎日時間を確保しましょう。できれば朝一番がベストです。心も頭も、身体も、朝の一番新鮮な状態の時に、聖書を読むと心にしみわたるのです。

 

いろんな出来事に遭遇すると、心は神様のことよりも人間関係や、自分のやるべきこと、頭を一生けんに働かせて努力すべきことに心が向いていくからです。

 

この朝の一番良い時間を神様に捧げることができるなら、ベストだと思います。

 

③聖書を読む前に祈りましょう

そして、聖書を読む前には、必ずお祈りをしましょう。

 

もちろん、祈らなくても聖書を読むことはできますが、聖書は雑誌や新聞などとは違うのです。これは神様のおことばであるという意識にたちましょう。ですから、祈るのです。何を祈るのでしょうか。神様が聖書のお言葉を教えて下さり、その中から必要なことを語って下さるように求めていきましょう。神様は私たちのこの小さな祈りに必ず答えてくださいます。神様から教えが来るということは、これは神様の奇跡です。しるしと不思議です。これを求めていきましょう。

 

エジプトから出て来たイスラエルの民は、毎日、神様のしるしと不思議に遭遇していました。毎日奇跡を体験したのです。「この天から降って来る不思議な食べ物、これは一体何だろうか。」と言いました。イスラエル人々は、これを「マナ」と呼びました。「これは何だろう」という意味です。

 

神様は、この不思議な体験を今日の私たちにも与えてくださいます。聖書を通してです。ですから読む前に祈る必要があるのです。「この心にどうぞ語って下さい。示してください。教えてください」と祈りましょう。この祈りは、決まりきった決まり文句の言葉ではなく、自分のことばで素直な気持ちで祈るといいと思います。

 

④主の語りかけを受け取りましょう

そして聖書の中からどの部分にスポットをあててくださるのか心に留めながら、注意深く読んでいきましょう。そのスポットのあたるポイントは、毎回異なります。もしかすると、毎回同じことが語られるということもあると思います。でも毎回違うことも多いのです。

 

最初は、この心にかかるところ、スポットの当たる部分、この語りかけを受け取ることに慣れずに、聖書を読んでもよくわからない、となることもあるでしょう。でも、神様は祈った祈りをないがしろにされないのです。そして、神様は交わりの神、コミュニケーションの神様です。私たちに語りたくてしょうがないと考えておられます。そのために私たちを導かれたのです。私たちを救われたのです。必ず語って下さいます。

 

もし、神様が聖書を通して毎日私たちに語って下さるとしたらどうでしょうか。この聖書の時間が楽しくなるのではないでしょうか。神様は死んだ神ではないのです。生きていらっしゃいます。ならば、私たちと生きた関係を作りたいのです。毎日主が語って下さることに期待しましょう。

 

もし聖書のことばが、心にビンビン響くならば、どれほど聖書を読むのが楽しくなるでしょうか。毎日読みたくてしょうがない。そうなると思います。

 

⑤デボーションノートをつけるようにしましょう。

そして受け取ったことを記録していきましょう。なぜでしょうか。神様が教えてくださったことは、大切なこと、重要なことだからです。人間はすぐに忘れる動物だからです。忘れないように記録しましょう。

 

その時間、その瞬間、「ああ、なんてすごいことだろう、神様は。」と感動をもって受け取ったとしても、記録しておかないと、2~3日すると、あれなんだったかなと忘れてしまいます。せっかく受け取った恵みもなくなってしまします。何ともったいないことでしょうか。

 

これは、霊的なことでもあります。霊の世界では絶えず戦いがあるのです。私たちの敵であるサタンは、神様の恵みを奪おう、奪おうとして働くのです。私たちは奪われないように、奪われないようにと守る必要があります。その守る防御の一つは、記録することです。ですから、ノートを取りましょう。

 

ついでに言いますが、礼拝の時間もノート準備して、心に留まったことをメモしましょう。そして、今日私に語って下さいと祈りの心を持ちましょう。礼拝メッセージを通して主が語ってくださるからです。

 

⑥受け取ったことを実践しましょう

そして受け取ったことを記録して、ただ記録するだけでなく、実践していきましょう。神様がお言葉を通して、「あの人をゆるしてあげなさい。」と心に語り掛けてくださるかもしれません。その時は、ノートに記録します。「〇〇さんを許します。どうかそのように行動できるように助けてください。まず、笑顔のあいさつと声かけから始めさせてください。」そのような祈りの言葉になると思います。

 

そしてあとで、これを振り返りましょう。できた、あるいは、できなかったと結果を振り返りましょう。できたら感謝を捧げましょう。できていなければ助けを求めて祈りましょう。このように、ノートをつけることは、振り返る時の助けになるのです。

 

これは何でしょうか。これは私たちの信仰を成長させるものとなっていきます。振り返ることによって神様の恵みを何度も何度も思い起こすことができます。それによって信仰がますます強められていきます。

 

(3)祈りは主との交わり

私たちがイエス様を信じる、信仰を持つうえで一番大切なことは何でしょうか。何をすることでしょうか。

 

それは、神様と親しい関係を持つことです。関係です。コミュニケーションです。これが私たちの信仰といってもいいでしょう。どんなに聖書に詳しくなっても、聖書の知識が増えても、神様との関係が深くなければ信仰者ではないのです。その関係を深めるために大切なことは祈りです。

 

①祈りは呼吸のよう―語って待ち望む

ある人が言いました。「私たちの祈りは呼吸のようなものだ。」 呼吸について考えてみると、息を吸ったり、吐いたりの繰り返しですね。酸素を体にたくさん取り込まないといけないからと言って、吸うことばかりはできないのです。吐くことがなければ吸うこともできません。その繰り返しです。祈りも息を吐くように、神様に感謝を申し上げる、訴える、お願いすることをします。これは私たち側から行う行為です。

 

次に、神様のほうから語って下さるように吸うことが必要です。これは待ち望むということです。神様が何を語って下さっているのかを待ち望んで聞くということです。この繰り返しが祈りです。

 

②絶えず祈る

聖書は、祈りについて教えています。テサロニケⅠ5:16をお読みします。

5:16 いつも喜んでいなさい。

5:17 絶えず祈りなさい。

5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです

 

聖書の命じていることは、絶えず祈りなさいということです。ときどき、思い出したら祈ってごらん、とは言っていないのです。絶えず祈れということです。絶えずというのは、絶えずです。1日の中でも何度でもということですね。

 

③どこで、いつ祈るのか

私たちは、どこで祈ったらいいのでしょうか。どのように祈りましょうか。マタイ6:6をお読みします。

 

マタイ6:6

6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 

祈りの多くは、個人的なお祈りです。神様と自分との個人的な関係です。ですから、自分の家の奥の部屋で、

隠れたところでとイエス様は言っています。

 

これは、自分だけの場所、自分だけの時間、一人になることができる場所を示しています。共同生活をしていて、どうしてもそのような場所が無いという人もいるかもしれません。それでも、トイレとかでもいいのです。押し入れでもいいのです。一人になれる場所を確保しましょう。

 

主は、個人的な祈りを喜ばれるからです。何も雑音のない、雑事の事柄も入って来ない、神様と1対1で向き合える場所と時間を確保していきましょう。

 

④どのように祈るか

私たちは、どのように祈ったらいいのでしょうか。祈りに決まりはありません。でも祈りのガイドがほしいと言う方もいるかもしれません。イエス様が「主の祈り」という祈りのガイドについて教えておられます。その祈りを学ぶことは大変大切なこと思いますが、「主の祈り」については別の機会に学びたいと思います。

 

簡単な祈りの流れは、1)感謝と礼拝 、2)心にある願いと求め 3)とりなし 4)感謝と礼拝 という流れでいいと思います。もちろん、必ずそのスタイルでというわけではありません。もしかすると、緊急事態のことで、ずっと願いと求めになることがあるかもしれません。それでもいいのです。自分のことばで、自分の思いの内を主に申し上げていきましょう。ありのままでいいのです。すべてをご存知である神様に対して、何も取り繕う必要はありません。

 

イザヤ14:12をお読みします。

28:12 主は彼らに、「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休息がある」と言われたのに、彼らは聞こうとしなかった。

 

神様とのお交わり、それは憩いだと言われています。そうです。聖書のお言葉も、お祈りも義務でもなく、強制的なノルマでもまく、重荷ではありません。まさしくそこに神様は憩いを置いておられます。わたしたちはその中で過ごすときに憩いを味わっていきましょう。それが神様の願いであります。

 

   

 

 

 

 

 

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