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聖書が示す終末のシナリオ①

テキスト 黙示録22章1-7、20

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、

22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 

(1)終末とは何か

①終末時計とは

皆さん、「終末時計」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。アメリカの原子力科学者会報(Bulletin of the Atomic Scientists)という組織が定期的に発表しているものです。核戦争や原子力政策の失敗などによって人類が破滅してしまう、その時を終末の午前0時とし,その終末までの残り時間が「あと何秒(分)」あるのか、ということを示したものです。これが「終末時計」とよばれるものです。それほど、人類の危機が迫っていますよと人々に危機感を訴えているわけです。皆で考えて何とかしないといけませんよというわけです。

 

核爆弾を持っていないこの日本も他人ごとではないのです。原子力発電所が16か所にあります。全体で55基の発電機があり、そのうちの10基が現在稼働しています。先の東日本大震災では大変大きな被害を受けました。その事故処理はまだ道半ばというか、検討さえついていません。

 

そして核爆弾のない日本は、核の傘ということでアメリカの安全保障に依存しています。アメリカが狙われた場合、その米軍基地のある日本も、この沖縄も真っ先にねらわれると考えられます。

 

世界では、ロシア・ウクライナ戦争があり、イスラエルとハマスの戦争が続いています。ますます危険度が増していると言えるでしょう。日本でも軍備増強が進んでいます。この終末時計は益々、残り少なくなっていくのではないでしょうか。

この終末時計は、今あと何秒残っているでしょうか。今年も1月24日に発表されました。あと90秒だと発表されています。2022年から10秒も短くなっています。このように、終末という言葉がさかんに取り上げられています。

 

②人類の絶滅についての仮説

アメリカの原子力科学者会報という団体だけでなく、いろいろな視点でこの地球や人類の将来について議論がなされています。やがて人類は絶滅に至ってしまうのではないかというものです。「絶滅」の原因として考えられているものは、何があるのでしょうか。

 

「自然現象」によるものと、「人類自身の活動の結果」によるものの二つに分けられると言います。自然現象としては巨大隕石衝突や超巨大火山の爆発によるものなどが考えられるといいます。しかし、その確率は極めて低く、むしろ2番目の「人類自身の活動結果」から来るものが大きいと研究者は予測しています。

 

それは、先ほどの核攻撃による破壊、生物兵器戦争、パンデミック、人口爆発、生態系の崩壊、気候変動、AI(人工知能)の暴走などが挙げられています。

 

(2)新しい天と地が造られる

これらのことを考える時、私たちの未来には希望は無いのでしょうか。聖書は、私たちの将来について何と言っているのでしょうか。聖書は実は多くの未来のことを語っています。終末時代のことを語っていますし、その究極の世界についてはっきりと語っています。漠然と語ってはいないのです。明確に語っています。

 

先ほど、黙示録22章をお読みしましたが、黙示録21章1-4をお読みします。

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 

①新しい都エルサレム

神様がここに示しておられるのは、ものすごく偉大なことです。やがて私たちがどのようなところに入るのかを神様はお示しになっているのです。そこは、新しい天と新しい地です。そしてそこに新しい都エルサレムが天から降りて来たと記されています。厳粛ですね。畏敬の念を感じます。神様がこのことを定めておられるのです。ここに人間の手のわざの入る余地は何もありません。1mmでさえも人の力は必要ないのです。神様の全能の力によって神の国が建てあげられるのです。

 

新しい都には誰が入るのでしょうか。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」

 

神様ご自身が私たちと共にいて下さり、一緒に住んでくださるとあります。そこは神様が直接支配される平和と喜びの場所であります。そこに死はないのです。悲しみも叫びも苦しみもありません。その原因であった罪が取り除かれたからです。その中に私たちは入っていくことが約束されています。

 

②いのちの水の川

黙示録22:1をお読みします。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、

22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 

新しい都とはどんな都でしょうか。その都の真ん中を川が流れていると記されています。その川はいのちの水の川だとあります。ただの川ではないのです。いのちの水です。これを飲む人々はみないのちにあふれることができるのです。このいのちの水の描写について、旧約聖書のエゼキエルも幻の内に示されたことが書かれています。

 

エゼキエル47:9-12をお読みします。

47:9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。

47:10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。

47:11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。

47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 

黙示録22章もエゼキエル47章もいのちの水について表現しています。でもこの2か所では異なることもあります。それは、黙示録22章とエゼキエル47章はそれぞれ異なる時代について説明しているということです。黙示録22章は、最終的な終着点、新しい天と新しい地、新しい都です。そしてそれは永遠に続く神の御国です。

 

それに対してエゼキエル47章は、その1歩手前の千年王国について説明しているのです。どこでそれがわかるのでしょうか。それは、漁師たちがいて、そこで仕事をしている様子が見えます。魚を取って、そのあと網を干しています。仕事をしていますね。これは千年王国の生活を表現しています。この千年王国の住民たちは、作物を育てて収穫したり、魚を獲ったりしていることがわかります。

 

③いのちの木

黙示録22章に戻りますが、22:2をもう一度お読みします。

22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 

新しい都の特徴の2つ目は、いのちの木が生えていることです。このいのちの木とはどんな木でしょうか。なんと12種類の実をつけるとあります。そして1年を通して1か月に1種類の実をつけて、毎月毎月異なる実をつけるのです。この実を食べるとどうなるのでしょうか。神のいのちにあずかり、神の永遠のいのちに生きるようになるのです。

 

そしてその木の葉が諸国の民をいやしたとあります。これが千年王国であれば、まだ仕事もしていますから、疲れることもあるでしょう。癒しが必要だと思います。でも、新しい都に入るときには、永遠のいのちをいただいて神と共に永遠に過ごすのです。ここでこのいのちの木の葉が人々を癒やしたというのはどういうことでしょうか。癒されることが必要なのでしょうか。

 

ギリシャ語の言語ではセラペイアという言葉が使われています。セラピーの語源になっている言葉ですが、日本でもアロマセラピーとか言いますね。ここでは病気の治療というよりも、体をより丈夫にするという解釈がふさわしいとされています。すでに丈夫な人をさらに丈夫にするということです。

 

④永遠の王

黙示録22:5節をお読みします。

22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 

ここで私たちの立場、私たちの役割について言われています。永遠に王として治めるとあります。私たちは天の御国で王となるというのです。千年王国においては諸国が任されていました。諸国の王として治めるのです。

 

そしてこの新しい都においてもその役職を持っています。王として治めるのです。何を治めるのでしょうか。人間ではないと思います。新しい都に入る人々は、みな王としての立場をいただくからです。聖書は詳しくは述べていませんが、天の御国に生きる被造物だと思われます。神様が天地万物を創造された時、人は特別な存在でした。人間以外のすべての被造物を支配する者として、治める者として造られたと記されています。

 

創世記1:28をお読みします。

1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

 

新しい天の御国に人間以外にどんな生き物がいるのかよくわかりませんが、天使を含めて神様が造られた霊的な生き物を含めて、いろいろな被造物が存在すると信じます。私たちはそれらを治める王となるのです。ハレルヤ。

 

⑤すぐに来るという約束

黙示録22:7をお読みします。

22:7 「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」

 

イエス様は、この言葉をしっかりと握って守りなさいと言われています。この言葉は偽りではないのです。必ず成就しますよと励ましの言葉を伝えているのです。でもこの聖書のことばが記されてからどれくらい時間が経過したでしょうか。およそ2000年です。「あなたはすぐに来ると言われたのではないのですか。」そのように言いたくなりますね。

 

でも、イエス様がすぐに来られないのは、それは神様の憐みです。多くの人々がまだイエス様を信じていないからです。ひとりでも多くの方々が信じて救われるようにと待っておられるのです。

ペテロⅡ3:4をお読みします。

3:4 こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」

 

2000前にも「すでに遅いではないか」といって不信仰になる人たちがいたようです。ペテロはこれについて解説しているのです。ペテロⅡ3:9をお読みします。

 

3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 

いずれにしても、イエス様はもう一度この地上に戻って来られます。イエス様はご自分が戻って来られるときについてたくさんの預言をしています。それをかいつまんで見ていきましょう。

 

(3)イエス様が戻って来られるとき

①苦難の時

マタイ24章においてイエス様は、この世のおわりについて、イエス様が戻って来られるときについてはっきりと語っておられます。今日はマタイ24:29-31を味わってみましょう。

 

24:29 そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。

24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。

24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。

 

イエス様が戻って来られる前に、苦難の時があると言っています。これをクリスチャンは患難時代と呼んでいます。聖書の預言を学んでいくと、その患難時代は7年という期間であることがわかります。今日はそこには触れませんが、いずれにしても7年間の患難の間に、ものすごい天変地変が起こります。太陽、月、星々に大きな異変が出てくると預言しています。そして最後に人の子、イエス様が来られるのです。

 

②再び天の雲に乗って来られる

イエス様が来られるときの様子は、天の雲に乗って来られるとあります。そしてその様子をすべての地上の人々が見るのです。今の時代、世界中のどこであっても、そこで起こったことが瞬時に世界中を駆け巡る時代です。その様子がテレビカメラで捕らえられて全世界に放映されるということも考えられますね。でもカメラ中継している場合ではないくらい厳粛なことが起こるのです。

 

③選びの民を集める

ここでイエス様は、一緒に天の御国からやって来た御使いたちを遣わします。選びの民を集めるとあります。この時代、ものすごい患難を通り過ぎた後の世界です。人々の数も1/3になっています。いろんな大災害の中にあって神様をのろう人々がはびこっていきます。しかし、イエス様を信じて信仰をしっかりと保つ人々もいます。

 

イエス様はその選びの民を集めるためにみ使いを遣わします。一方では、胸をたたいて悲しむ人々がいるとあります。神様を拒みつづけて神様を呪っていた人々が、やっと気づくのです。「ああ。聖書に書かれていたことは真実だったのか。」

 

イエス様が戻って来られるとき、それを喜ぶ人たちとそれを悲しむ人たちの2種類の人たちがいることを心に留めていきましょう。イエス様は、この様子はノアの時と一緒ですと言われました。ノアの時代、大洪水が起きるまで、人々はノアの言うことを誰も信じず、頭がおかしくなったのかと言っていたのです。しかし、大洪水が起きた時、人々はやっと気づいたのです。でもその時には、箱舟の後ろの戸は閉じてしまっていました。ノアは人々の叫びの声を聞いて何とか戸を開けて助けてあげようとしたと思います。でもその扉は開きませんでした。神様がその後ろの戸を閉ざされたとあるからです。

 

この最後の大患難は、神様のさばきの時であります。信じる人々と信じない人々との区別がはっきりとわかれてくるのです。そして、この時代にイエス様を信じる人々は大きな迫害を受けるのです。信じて命を落とす人々も大勢出てきます。それでも恐れる必要はありません。私たちにとって死は終わりではないからです。

 

今はまだ、患難時代ではありません。最期のさばきの時でもありません。まだ恵が残っています。

コリント人Ⅱ6:2をお読みします。

6:2 神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。

 

今の時代、人々が救われていく時代として残されています。この限られた時間、私たちは大切に用いていきましょう。残された時間は、もう少ないからです。

 

 

 

 

 

 

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