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ああ、主よ、あれは借り物です

テキスト  Ⅱ列王記6:1-6

6:5 一人が梁にする木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちてしまった。彼は叫んだ。「ああ、主よ、あれは借り物です。」

6:6 神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。

 

(1)エリシャと預言者の仲間たち

今日は、預言者エリシャとその仲間たちに目を留めていきましょう。一緒にいることの大切さを見ていきましょう。

 

①エリヤの一番弟子

このエリシャは、偉大な預言者のリーダー、エリヤの一番弟子でした。どこに行くにもお供をしていっしょだったのです。エリヤが天に召されるときが来た時、エリヤがこのエリシャに聞きました。「あなたは何を求めているのか。あなたのために祈ってあげよう」と言いました。すると、エリシャはすかさず答えました。「あなたの2倍の分け前です。」

 

このエリヤもものすごい神様の奇跡を現わした人ですが、このエリシャはこれらの奇跡を見た上で、その2倍の働きがしたいのですと言ったのです。ものすごいことですね。

神様は、私たちにも霊的に求める人になってほしい、霊的貪欲な者になってほしいと願っておられます。

 

先週、ヤコブという人物に焦点を当てました。彼は、兄弟エサウにはるかに優って霊的に貪欲な人物でした。神様の祝福さえあればあとはもう何も要らないという感じです。

これがすべての祝福の源ということがわかっていました。

 

エリシャは、預言者として飢え渇いていました。神様に仕えるためには、エリヤの2倍の奇跡の働きがほしい、そう願ったのです。そしてその通りになりました。

 

彼は、預言者のリーダとして立ちます。そして預言者を育てる預言者学校の面倒を見ていました。そのように、預言者を育てながら、イスラエルの王にも仕えていました。

 

②アラムの王の計略を壊す

今日の聖書のすぐ後に、この出来事が記されていますが、ある時、アラムの王がイスラエル王国に攻め込むための策略を立てていました。この場所に戦いの陣営を張ってイスラエルに攻め込もう。罠を仕掛けたのです。

ところがどうでしょう。蓋を開けてみると、どんなすぐれた計略もすべてが失敗に終わってしまいます。このアラムの王は疑心暗鬼になりました。われわれの中にスパイがいるのではないか。すると家来の一人が答えたのです。「王様、イスラエルには、預言者エリシャがいて、我々の計画をすべて見破っているのです。だから、ひとつも成功しないのです。」

 

このようにして、エリシャという預言者は神様が示してくださる啓示をいただいて、イスラエルの王にも仕えていたのです。そして生きて働かれる神様の御業を現わしていたのです。

 

(2)ヨルダン川に落とした斧の頭

①狭くなった預言者仲間の場所

ここで、預言者仲間の間に新しい課題が出てきたことがわかります。預言者学校の弟子たちが成長し、仲間に加わる弟子たちが増えたということだと思います。人が増えるということは、住む場所も広げる必要があります。

 

②新しい提案、アイデア

この預言者仲間たちは新しい提案、アイデアを持ち出してきました。もっと広い家を建てましょう。そこで学ぶことができるようにしましょう。多くの弟子を育てることができるようにしましょう。

 

「お金はないので、自分たちで木を切って建てるようにしましょう。あのヨルダン川に行けば木が豊富にあります。そこに建てましょう。」

 

リーダーだったエリシャも賛成しました。「とりかかりなさい」 しかし、預言者の仲間たちの良いところは、エリシャも 引っ張って行ったところです。「どうか、ぜひ、しもべたちと一緒に来てください」しつこく頼み込んだのです。「エリシャも最後は、わかった一緒に行こう」とついてきてくれました。

 

私たちも、毎日の生活の中でいろんな計画を立てます。立派な計画を立てるのです。神様もその計画を祝福してくださいます。でも、もう一押し、「あなたがともにいてくださらなければ何もできません。」と求めていこうではありませんか。もう一押し求めなくても、それなりの祝福を受けて実を結ぶでしょう。でも、確かに神様が働いてくださったという、明かな実がほしいのです。そうすれば、神様の栄光が表されるからです。

 

③主よ。あれは借り物です

ヨルダン川には豊富に木が生えていました。そこに生えている丈夫そうな木を斧で切り倒し始めました。ところが事件が起きたのです。木を切っている最中に、なんと、斧の頭がスポットと抜け落ちてしまいました。さらに落ちた場所が悪かったのです。川の中に落ちてしまいました。川は濁っていて、流れもあり、深さもあって簡単には見つけることができません。

 

彼はすぐに叫びました。「主よ。あれは借り物です。」今の時代、レンタカーでもなんでも、何かを借りて事を行うときは、保険に入りますね。万が一、借りた時の状態で返却できないときに備えて保険に入るわけです。そうしておくと、万が一に対応できるわけです。

 

当時は、保険とかそんなものはないのです。友人の好意によって貸してもらった大切な斧でした。高価なモノでした。おそらく借り賃も高かったと思います。

 

すばらしい計画を立てて、コストも抑えて立派な家を建てるはずが、すべてが消えてなくなりそうでした。斧の弁償代に消えてしまいそうでした。

 

④どこに落ちたのか

すると、ここで神の人、エリシャが登場します。「どこに落ちたのか」「そこです。そこです。」すると、エリシャは、1本の枝を用意します。そして示された場所に思いっきりこの1本の枝を、斧めがけて投げ込んだのです。

 

なんと、神様はその斧の頭を浮かび上がらせてくださいました。1発で仕留めたのです。これは人のわざではないのです。神の業でした。見えないところを見えるようにしてくださり、狙いを定めることができるようにしてくださいました。そして、ちょうどうまく斧の穴にはいるようにしてくださったのも神様の奇跡です。

 

預言者の弟子のひとりが、「どうか、ぜひ、しもべたちと一緒に来てください」といってしつこくお願いしなければ、エリシャは来なかったと思います。でも、エリシャが来てくれたおかげで、大変な災難から救われたのです。

 

⑤ともに歩んでくださる神

このエリシャは、私たちとともに歩んでくださる神様を象徴していると思います。神様は、私たちとともに歩んでくださるお方です。でも私たちのほうでも、神様を歓迎して一緒に歩むようにする必要があります。毎日、歓迎しましょう。イエス様を信じたときイエス様を心に受け入れるお祈りをしました。ですから、主は、私たちの内側に住んでくださっています。聖霊というお方が内側に住んでくださっています。

 

私たちは、そのお方を毎日歓迎しましょう。「聖霊様、今日はどのように導いてくださいますか。何を教えてくださいますか。」といってこのお方を慕い求めていきましょう。

 

もしイエス様を信じても、この方を端っこに放って置くなら、交わりは十分ではないのです。親しく語り掛けてその方と交わりをもって行きましょう。

 

(3)1本の枝とは

①イエス様の十字架

預言者エリシャが用いた1本の木の枝とは何でしょうか。私たちの問題解決のために示されている木は何でしょうか。十字架です。イエス様の十字架です。イエス様の十字架は、罪を解決する身代わりの御業を象徴しています。

 

私たちは、十字架を拝むわけではないのです。でも、十字架はイエス様がなしとげてくださった罪の赦しの象徴です。これ以外に罪の赦しはありません。罪のない方が、完全ないけにえ、完全なささげものとなってくださいました。このお方が死んで下さったからこそ、私たちに罪の赦しがもたらされました。これを受け取った者はもはや罪に定められることが無いのです。ハレルヤ。

 

コロサイ2:14をお読みします。

2:14 私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

 

イエス様は、川底に沈んでいる私たちの罪を解決してくださいました。その罪に焦点を当てて、その穴に十字架を差し込んでくださったのです。私たちの罪が残ったままではだれも神にお会いすることはできません。でも感謝なことにイエス様が私たちの罪を取ってくださいました。神様に背いて生きる、反抗して生きる、自分勝手に生きるというその罪から私たちを救ってくださいました。

 

悪しき敵であるサタンは、私たちの罪を振りかざすのです。「お前は罪人ではないか。見ろ、ここにお前の借金の債務証書があるぞ。これは俺が握っている。だから、お前は自由にはならない。俺の奴隷だ。いつまでも俺の奴隷だ。」と脅してきます。

 

でも、私たちはつぎのように宣言することができます。「確かに俺は罪人だった。神様に背いて生きてきた。でも、その証書をよく見て見ろ。全部、赤い線で塗られているぞ。その赤い線、それはキリストの十字架の血だ。だから、完全に取り消された。その債務証書は全部無効だ。まったく役に立たない。」

 

これが、私たちになされた真実のできごとなのです。ハレルヤ。

 

②問題を解決する十字架

ペテロの手紙第一をお読みします。

2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

 

イエス様の十字架は、私たちの罪を赦すためだけではありません。その先があるのです。それは罪を離れるためと記されていますね。だれも自分の力で罪に打ち勝つことはできません。聖霊様の力が必要です。でもイエス様の十字架にはすでにその恵みが入っているのです。罪を離れて義のために生きる力、聖霊様の助けをいただくことができる恵みが入っているのです。感謝ではないでしょうか。

 

そしてキリストの十字架は、病のいやしをもたらします。イエス様が代わりに打たれてくださったからです。すべての人の身代わりとなって呪われた者となってくださいました。ですから、私たちはいやしの恵みを受け取ることができます。このことを本当に感謝していきましょう。

 

私たちの内に問題や課題、病気があるかもしれません。そのために深く川底に沈みこむような思いがあるかもしれません。でもエリシャは1本の木の枝を投げ込むように神様から示されたのです。

 

もし、イエス様の十字架が、私たちのその問題や課題、病気に差し込まれるならば、イエス様がそれを浮き上がらせてくださり、解決へと導いてくださいます。そのことを信じていきましょう。期待していきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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