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わたしを呼べ

テキスト  エレミヤ書33:1-3

33:1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった。

33:2 「地を造った主、それを形造って堅く立てた主、その名が主である方が言われる。

33:3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』

 

今日は、旧約聖書に登場する預言者エレミヤに注目していきましょう。彼は、BC586年に起きたバビロン捕囚という出来事にまさに直面した人物であります。

 

バビロン捕囚というのは、イスラエルにあった2つの王国の内のひとつ、南のユダ王国がバビロン帝国によって滅ぼされた事件です。北のイスラエル王国はすでにBC722年にアッシリア帝国によって滅ぼされていました。ユダ王国の国民の多くは捕らえられてバビロンに連れていかれました。

 

一部はユダに残されて、バビロン帝国によって立てられたゲダルヤという総督の元に管理されていったのです。バビロン帝がユダを完全に陥落させたとき、なんとエレミヤは、牢の中に監禁されていたのです。しかし、バビロン王の好意を受けて牢から出されてユダに留まることが許されたのです。

 

エレミヤという人物は、神様から語れと言われたことを忠実に語りました。しかし、その内容は、人々の悪いところを指摘する預言であり、さばきの預言でした。ですから、彼はユダの人々から嫌われていました。なんと生まれ故郷の地からも嫌われていたのです。

 

 

エレミヤのあだ名があります。「涙の預言者」です。あるいは、「悲しみの預言者」です。それほど、聞く者にとっては心地良くない、きつい預言を語ったのです。うけいれられなかったのです。ですから、彼は涙ながらに語ったのです。どうして神からの警告、この忠告を聞くことができないのか。彼は、皆から嫌われるどころか、王によって捕らえられて長らく井戸に放り込まれたりしました。もう死ぬ寸前までいったのです。どんな預言をしたのでしょうか。その内容を一部見てみましょう。

 

エレミヤ1:14-16

1:14 すると主は私に言われた。「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。

1:15 今わたしは、北のすべての王国の民に呼びかけている。──主のことば──彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダのすべての町に向かいそれぞれ王座を設ける。

1:16 わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。

彼の預言の多くは、さばきの預言です。神様からまもなくさばきがやって来るというものです。ユダ王国は、バビロンの征服をなんとか防ごうと必死でした。何度も何度も攻撃にあっては、人々は連れ去られていったのです。それでも必死にこらえていました。

 

そんな時、「あなたたちが神様を捨てたからこうなるのだ、もう間もなくバビロンに滅ぼされてしまう。」「素直に降伏してバビロンで生き延びよ」そんな預言までしたのです。

 

エレミヤ書27:12-13をお読みします。

27:12 ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばのとおりに言った。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。

27:13 なぜ、あなたとあなたの民は、主がバビロンの王に仕えない国に向かって語られたように、剣と飢饉と疫病で死のうとするのか。

 

エレミヤは、死をも恐れずに、ゼデキヤ王にも大胆に語ったのです。どのように敵の攻撃を防いで反撃を与えることができるのか、いろいろと策を凝らしているときに、「敵にその首を差し出しなさい」という預言を伝えたのです。勇気がありますね。

 

しかし、神様はきびしい苦難のときを通らせるときには、同時に深い慰めを注がれるお方です。厳しいことだけを言われたのではないのです。試練の中にも、神様は深い憐みを注がれるお方です。それが、今日のテキストです。その続きエレミヤ33:4‐16を味わってみましょう。

 

33:4 まことに、イスラエルの神である主は、敵の塁や剣に対抗するために取り壊された、この都の家々と、ユダの王たちの家々について、こう言われる。

33:5 『彼らはカルデア人と戦おうとして出て行くが、わたしの怒りと憤りによって打ち殺された屍をその家々に満たす。それは、彼らのすべての悪のゆえに、わたしがこの都から顔を隠したからだ。

33:6 見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。

33:7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。

33:8 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。

 

33:9 この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」

33:10 主はこう言われる。「あなたがたが、人も家畜もいない廃墟と言うこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、

33:11 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──主は言われる。」

 

「一度、このユダ王国はバビロンに滅ぼされる。しかしわたしはこの国を再び回復する。楽しみと喜びが戻って来る。以前のように神様を礼拝するその時が再びやってくる。」そのように、神様は回復の預言をエレミヤに伝えたのです。

 

この都とはどこでしょうか。もちろんエルサレムのことです。エルサレムという名前は、意味はどんな意味でしょうか。ヘブル語では、「イェルーシャーライム」と言います。2つのヘブル語からなっているとされています。「イェルー」は「見る」という意味があるそうです。「シャーライム」は「完成する」という意味があるそうです。これを合わせると、「イェルーシャーライム」は「神がご覧になっているその計画を完成する」という意味になるそうです。ですから、神様は決してエルサレムを見捨てることはなさらない、ということです。神様はこの都、エルサレムの回復を語られたのです。

 

このことはエレミヤにとって、また、実際に滅ぼされた後のユダヤの人々にとってどれだけ大きな慰めとなった事でしょうか。たとえ、人々の悪のために、さばきがあったとしても、神様はただ懲らしめるだけのお方ではないということを示されたのです。

 

ここでもうひとつ注目したいことがあります。それは、神様はコミュニケーションの神様であるということです。33:3をもう一度見てみましょう。

33:3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』

 

「わたしを呼べ」と言われています。なんと感謝な事でしょうか。神様を呼んでもいいということです。「そうすれば、わたしは語るよ、示すよ。」と記されています。

 

私たち人間は、あまりしつこくすると限界に達します。「また、後でね」となります。でも神様は、感謝なことに「わたしを呼べ」と言われます。しかも、神様がそのことを望んでおられるということです。神様は、私たちとの交わりを求めておられます。どんなに呼びかけても、「また、後でね」とは言われないのです。

 

エレミヤ29:10~14をお読みします。

10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。

11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。

13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

14 わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──主のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」

 

ここでも神様は、わたしを呼びなさいと言われていますね。祈れともあります。そしてその祈りを聞いているよとあります。そしてわたしを捜して見なさい、見つけることができるよとあります。

 

神様を呼び求めた結果は何でしょうか。呼び求めるとどうなるのでしょうか。一方通行ではないのです。必ず答えてくださると約束です。29章では、元の場所へ帰らせる、あなた方を集める、元通りにするのだと語られています。

 

主は私たちが平安と将来と希望のある場所へと導いてくださるのです。これが神様の約束ですね。神様のご計画が最初にあります。それを受け取るために神様を呼び求めるのです。

 

そして、神様は私たちを愛してくださっています。それゆえに私たちと交わることを切に求めておられるです。神様とどのようにしてお交わりすることができるのでしょうか。

 

祈ることによってです。そして聖書のお言葉を味わうことによってです。そして神様への賛美の歌を捧げることです。神様は賛美の中に住まわれるというお言葉があるのです。これは、神様を礼拝するということです。そのようにして私たちは神様とお交わりすることができます。

 

ですから、私たちは、このことを自分の生活の中にもしっかりと定着させていきましょう。毎日時間をとって祈っているでしょうか。毎日時間をとって聖書を味わっているでしょうか。毎日時間をとって神様を礼拝しているでしょうか。神様がそのことを望んでおられるからです。忠実に行っていきましょう。

 

3:11にあるように、神様は私たちに平安を約束し、将来と希望を約束しておられます。このように信じる者たち、頼る者たちをないがしろにはされないのです。そして良いものを備えてくださるお方です。

 

ヤコブ1:17をお読みします。

1:17 すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

 

神様が私たちを愛してくださること、そしてイエス様を通して私たちの罪を赦し、永遠のいのちにあずからせてくださること、そして豊かないのちによって生かしてくださるというその約束も変わることはありません。父には移り変わりがないと言っています。

 

そして良い贈り物を注いでくださるお方なのです。良いもの、良い贈り物は神様からやって来ると記されています。自分で求めて、求めて、捜し求めて得る良いも、もちろんあるでしょう。でも「もっとも価値あるもの」は神様から下ってきますよと教えています。

 

ここで、「もっとも価値あるもの」について考えてみましょう。皆さんにとってもっとも価値あるものとは何でしょうか。1番目、2番目、3番目と順位をつけることができるでしょうか。

 

聖書は何と言っているでしょうか。それはもしかすると自分の考える「もっとも価値あるもの」とは違っているかもしれません。

 

聖書には、いろんな記事があります。歴史があります。神様の教え、律法があります。詩があります。預言があります。手紙もあります。聖書は神様が私たち人類に書いたラブレターであると言われます。神様が、聖書を通して私たちに一番伝えたいことは何でしょうか。

 

その中心テーマは、救いのメッセージです。私たちを罪から救うためにイエス様を送ってくださったということです。これが聖書の中心テーマです。旧約聖書からずっとそこに焦点が合わせられているといってもいいのです。

 

神様が私たちに伝える「もっとも価値あるもの」は御子イエスキリストということです。この「もっとも価値あるもの」である御子イエスキリストを受け取っているでしょうか。

 

使徒の働き4:12をお読みいたします。

4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

 

 

ここにあるように、キリストこそ私たちの唯一の救いですよと言っています。ほかにはないのです。これが聖書の主張です。

 

聖書が語る「もっとも価値あるもの」であるイエス様を個人的にまだ受け取っていない人はいないでしょうか。今日がチャンスです。

 

使徒の働き2:21をお読みします。

2:21 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』

神様は真実なお方です。呼び求める人を必ず救ってくださるのです。

 

       

 

 

 

 

 

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