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2023年のことを神様に感謝しよう

ローマ人への手紙

8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 

今日のテキストは、とても有名なお言葉です。神を愛する人について述べています。彼らのために、神様がすべてのことを働かせて益としてくださるというお言葉です。これは、神様の約束です。すごいお言葉だと思いませんか。神様は、信じて神様を愛する人々を特別に扱ってくださるということです。

 

彼らに関するすべてのことについて責任をもってくださるということです。感謝ではないでしょうか。私たちが生きていく毎日の一つ一つのことについて、ちゃんと見ていてくださるということです。そしてそれだけでなく、すべてのことを働かせて益としてくださるというのです。すべてのことが益になるということです。

 

どうしたらすべてのことが益になるのでしょうか。わたしたちの「ある一部については益になるでしょう」とは言っていないのです。すべてのことが働いて益になると言うのです。どのように働くかは、神様の手にかかっています。わたしたちはそれをそのまま信じる必要があります。それを信じて歩むのです。それが信仰です。

 

何か神様のために仕えて、奉仕をして一生懸命やりました、というそのことだけではないということですね。そのことはもちろん益に変えられるでしょう。しかし神様は、それ以外の「私に関わるすべてのこと」についても益に変えてくださると言われるのです。

 

私たちの内に悪いものがあったらどうなるでしょうか。神様はそれをも用いて、益になるように働いてくださいます。その時には、私たちが罪深い者であることを示すでしょう。どのようにして示されるでしょうか。何か痛い思いをするかもしれません。あるいは、誰かからとがめられたり、責められたりするかもしれません。

 

誰かから悪口を言われたり責められたりしたら、良い気持ちがする人は誰もいません。気分が悪いのです。でも、そのときに、反発して終わるのか、あるいは自分を振り返ってみるのかが、分かれ目です。反省すべきことがないのか、改めるべきことがないのか、柔らかい心で考えてみることが大切ですね。もしここで気づくことがあればそれは大きな幸いです。いままで自分で気づかなかったことが気づけたからです。これは本当に幸いです。

 

自分に対して注意してくれたり、きついことを言う人に対して、私たちは嫌な思いをします。悲しくなります。でも彼らも同じように嫌な思いをしているわけです。そのことを伝えることが楽しくてしょうがないのではないのです。いやな思いをもって、言いたくもないことを、あえて言っているのです。ある意味勇気があると言えるでしょう。本当は、感謝すべきなのかもしれません。

 

神様は、たとえそれがわざわいに思えるようなことを通しても私たちを成長させてくださるお方なのです。苦しみしかないと思えるようなことを通しても、その中を通ることによって私たちを訓練し、清め、引き上げてくださるのです。

 

詩編119:71をお読みします。

119:71 苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。 それにより 私はあなたのおきてを学びました。

この詩編の作者は、自分の数多くの体験の中から、苦しみの中にも神様の恵みがあると言っています。なぜなら、彼は神様の掟を学んだからなのです。

 

もし、私たちがどこかの大富豪のボンボンとして生まれて、甘やかされて育てられ、何の苦労も経験としてなかったら、どんな大人になるでしょうか。人々からチヤホヤされて良い物に恵まれて、良いモノを着て、良いモノを食べて、何不自由なく過ごし、自分の手に入れたいものは何の苦労もなく簡単にすぐに手に入る、そのような人生だったらどうなるでしょうか。

 

その人が、すべての財産を握って、その会社を経営する時には、危なかしくてしょうがないのではないでしょうか。人のする苦労がどんなものか分からないと思います。人の痛みも悲しみも分からないと思います。貧しさも、忍耐も知らないと思います。それでは人の心を理解することができないと思います。

 

ですから、私たちはいろんなところを通る必要があります。苦労や、忍耐も、痛みも辛さも、悲しみもある程度経験する必要があるわけです。わたしたちがそれを人生の一つとして受け止めるとき、神様はその一つ一つを益に変えてくださいます。それが神様の約束です。

 

私たちが毎日祈る祈りについてもそうです。すべてがすぐに聞かれて、すべてが祈った通りになると素晴らしいことだと思います。でも必ずしもそうはならないです。祈りが聞かれるのには、時があります。神様は、最善の時を用意してくださっていると信じます。

 

もし、ちょっと祈っただけでなんでもすぐにかなえられたらどうなるでしょう。私たちは忍耐することを忘れてしまうでしょう。待ち望むことがなくなるでしょう。主に切に求めていくことがなくなるでしょう。

 

なんでも簡単に祈りが聞かれてかなえられるとするならば、時間をかけて祈る必要がなくなってしまいます。神様と交わるために祈ることもなくなってしまいます。神様と向き合う時間、静かに待ち望んでみ言葉を受け取っていく、そのような主を待ち望む時間もとらなくなっていくと思います。

 

私たちの祈りの時間は、ある意味で自分に死ぬ時間でもあります。自分が自分が、という自分優先に対して、時間を神様に捧げる時でもあります。捧げものです。私たちはいつでも自分を生かしたいと思います。自分を優先したいという願いがあります。祈っていると、あのことをしなくっちゃとか、あの文章を書かなければとか、いろんなやるべきことが次から次へと思いつきます。あれをしたいこれをしたと。

 

でも、もし、どんなことでも簡単に祈りが聞かれて、待ち望むことも、祈り続けることもなければ、私たちの信仰も、忍耐も全く成長することがなくなってしまいます。祈ることは、ある意味、神様がわたしたちを訓練してくださっていることだと思います。

 

神様は私たちともっともっと交わりたいと願っておられます。私たちが神様とお交わりしたいと思う思いの何百倍も、神様はそのことを願っておられます。しかし、私たちは忙しいことを理由にして、なかなか神様との交わる時間を取ろうとしません。

 

ですから、祈りがすぐに聞かれないのは、「もっともっと私の前に来て、もっと私との交わりを持ちましょう」という意味が込められているのかもしれません。

 

ある大富豪のボンボンが10歳になった時、お父さんにねだりました。「お父さん、僕にポルシェを買ってちょうだい。」「わかった、お前にクリスマスプレゼントとして買ってあげよう」という父親はどこにもいませんね。車はおもちゃとは違うのです。車に乗る前に、ちゃんと果たすべきことがあるのです。自動車免許を取る必要があります。

 

広大な土地の持ち主であれば、その私有地を自由に車を乗りこなすことも可能でしょう。でも、車を自由に操ることができるのと、免許を取ることとは意味が異なります。ちゃんと交通ルールを学んで身につける必要があるのです。彼は、免許が取れる年齢になるまで、ポルシェを待つ必要があるのです。何でも父親にねだることはできても、その時期を待つ必要があることもあるわけです。

 

私たちの祈りも、私たちの信仰が整えられるまで待つ必要があるものもあるでしょう。品性が整えられるまで待つ必要があるものもあると思います。忘れてはいけないのは、神様がすべてのことを働かせて益としてくださるということです。祈りが神様に届いていないのではありません。この信仰をしっかり持って行きましょう。

 

イスラエルがエジプトで奴隷状態であったときに、モーセがイスラエルの民を導いてエジプトから引き出した場面を思い出してみましょう。

 

神様は、イスラエルをあえて紅海という海のそばに民を導かれました。目の前には海しかありません。ほかに行く道が無いのです。すると、なんとエジプト軍が後を追いかけて迫ってきたのです。「ああ。何とイスラエル人は道に迷ってしまった。ここは海ではないか。カナンの地へゆくことはできない」

 

しかし、神様は言われたのです。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」

 

そしてモーセに前進するように命じました。そして手を海に向けて伸ばすと、なんと海が真っ二つに割れて、そこに乾いた道ができたと記されています。神様は全能の力をもってそこに道を通されたのです。そして神様ご自身がエジプト軍と戦ってくださいました。そしてイスラエルの民は無事に反対側の海岸に渡ることができたのです。

 

最初、イスラエルがやって来た場所は最悪の場所のように思えました。前を見るとそこは深い海です。後ろをみるとエジプト軍が迫ってきます。絶体絶命のような状態だったのです。でも、神様はすべてをご存知でした。すべてのことをコンロールしておられました。そしてすべてのことを益としてくださったのです。イスラエルを捕えようとしたエジプト軍は、全滅してしまったのです。

 

このことが神様がすべてのことを働かせて益として下さるということです。私たちの人生に同じような大きな奇跡はないかもしれません。でも小さな一つ一つの出来事に神様は目を留めてくださいます。そして「わたしが益とするよ」と言ってくださっています。なんと感謝な事ではないでしょうか。

 

モーセとイスラエルの民は、神様がなさった偉大な奇跡のわざを間近で見ました。「神様が私たちのために戦ってくださった。私たちをエジプトから救い出してくださった。なんと感謝な事だろう。なんと驚くべきことだろう。」

 

彼らは、神様への感謝と賛美の歌をささげたのです。どのように歌ったのでしょうか。

 

一つ目は、「私は神様をあがめよう」と意思を表明しています。

二つ目は、神様のなされた御業の事実を言い表しています。「馬と乗り手を海の中に投げ込まれた」と具体的に言っています。

三つ目は、神様の偉大さ、ご性質について歌っています。「神様は私の力、ほめ歌。私の救い。主はいくさ人、その名は主」ここで用いられている主という言葉は、ヤーウェという神様のお名前を代表するものです。すなわち、全知全能の、天地を造られた唯一の神ですという告白です。

 

私たちも、このように神様のことを告白して賛美していきましょう。そして感謝を表していきましょう。もうすぐ1年を閉じますが、ひとつひとつ、神様がなされた御業、その恵みを思い起こして感謝を捧げていきましょう。そしてその偉大さに目を向けてその素晴らしさを言い表していきましょう。

 

マタイの福音書5:17-18をお読みします。

5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。

 

この1年間、礼拝の中でたくさんの聖書箇所を開き、一緒に声に出して読み味わってきました。なぜ、こんなに多くあっちこっち聖書を開く必要があるのでしょうか。1か所だけで十分ではないかと思うかもしれません。

 

でも、なぜ聖書をたくさん開いてきたかというと、その一つ一つが神様の約束であり、神の言葉であるからです。ただの読み物ではないのです。ただの新聞や雑誌のような読み物ではないのです。生きて働く神の言葉だからなのです。

 

イエス様は、天地が滅び去るその時まで、聖書のお言葉はなくならない、滅びないと言われたのです。ですから、最後の最後まで重要ですよ、神様の約束は生きていますよということなのです。ですから、礼拝で語られた聖書の箇所、これは重要聖句ですから、できるだけ暗唱するようにしましょう。それは、私たちの信仰をささえるものだからです。私たちの力となるからです。