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神をあがめ賛美した羊飼いたち

テキスト ルカ2:1-20

ルカの福音書

2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 

今日のテキストのはじめに、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た、という少し聞きなれない言葉がありますね。

 

全世界の住民登録って何でしょうか。この時代、ローマ帝国が幅広く世界を統括していました。イスラエルの国もローマに支配されていました。このローマ帝国が治めている領地の各地から税金を徴収するための準備ということです。ローマ帝国をますます強固な国とするために、支配している地域から税金を取るということは、当時の方策としては自然だったわけです。

 

この命令を出したのが、当時の初代皇帝アウグストゥスでした。初代ローマ皇帝の名が、ここにきちんと記されているということは、イエス様の誕生にとても意味ある事なんですね。この初代皇帝はパクスローマとよばれるローマの平和を築いた人です。この時代からローマに平和が訪れたわけです。その記念すべき最高権力者の名のもとにイエス様がお生まれになったということです。

 

この最高権力者が住民登録を命じました。これはとても強い命令でした。なぜなら、身重になっていたマリヤが長旅をせざるを得なかったからです。マリヤはもう臨月になっていました。普通、この時期になるとだれも旅をしません。安静にしているのです。

 

JALやANAなどの航空会社も、飛行機を乗る人が出産予定日を29日切ったら医者の診断書が必要になるようです。

 

ですから、この勅令はよっぽどの強い命令だということがわかります。でも、この命令のおかげで、この赤ちゃんはベツレヘムで誕生することになりました。

 

なぜベツレヘムがそれほど重要なのでしょうか。ベツレヘムとはだれの出身地でしょうか。そうです。あのダビデ王の出身地なのです。ダビデは、神様から、その王位がとこしえにその子孫から続くよと約束を受けた人です。ヨセフはそのダビデの子孫でした。ですから、イエス様もダビデの家系としてベツレヘムで生まれる必要がありました。イエス様は、霊的なユダヤ人の王としてお生まれになるからです。これが神様の預言です。約束です。

ミカ書5:2をお読みいたします。

5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」

 

イスラエルを治める者という表現がありますが、救い主メシヤのことを預言しています。この方はベツレヘムから出るということです。これはベツレヘムで誕生するということです。そして神様はこの預言を守られました。

 

ヨセフとマリアがこの臨月状態で長旅をしたということは、実は、神様の不思議な預言の成就でした。もし、住んでいたナザレで出産していたら、この預言は成就しなかったことになります。神様はローマ皇帝を動かして勅令を出させたわけです。当時世界を治めていた、初代のローマ皇帝が、全宇宙の創造者の御子キリスト、王の王、主の主である方の誕生に関わったということです。不思議な神様のご計画を見ることができるのではないでしょうか。

 

臨月を迎えたマリアたちはやっとでベツレヘムに到着しました。妊婦さんなので、急ぐことができません。休みを何度もとりながらのゆっくりゆっくりと旅をしたのです。

 

ベツレヘムに到着してみると、宿屋はどこも満席でした。でももう生まれそうです。野宿をするわけにもいきません。宿屋の主人は、最大限の配慮をしました。それが家畜小屋だったのです。偉大なる神の御子キリスト、救い主なるお方が、家畜小屋でお生まれになりました。その場所は、王の誕生にもっともふさわしくない場所でした。

 

家畜小屋は居心地がいいでしょうか。悪いですね。風がビュービュー吹き込んでくるのです。家畜は、厚い毛皮を着ていますのでそれでも大丈夫かもしれませんが、人間にとっては居心地は良くないのです。柔らかいベッドも布団もありません。家畜のえさとなる藁を敷き詰めて寝る場所を確保したのです。周りは、ロバとか、ほかの家畜のウンチで臭かったと思われます。

 

どんなに貧しくとも、家畜小屋では人を産むことはないと思います。イエス様は人々から相手にされない、端に追いやられる境遇に甘んじられました。あえてそれを体験されたのです。神様はそれでよしとされました。それは、どんな人でもイエス様に近づくことができるようにとの神様の配慮なのです。高貴な人や、人々から大切にされ尊敬されている人々だけが近づくことができるのではないということです。どんな人でもです。イエス様はどんな人でも受け入れてくださるのです。感謝ではないでしょうか。

 

 

やがてマリヤは男の子の赤ちゃんを産みます。すると、近くの野原で夜番をしていた羊飼いたちにニュースが飛び込んできます。この素晴らしいニュースは、この貧しい羊飼いたちに真っ先に届いたのです。

 

王宮に住む王様でもありませんでした。律法を教えて指導する律法学者や宗教指導者たちにでもありませんでした。彼らに真っ先に届きそうですが、そうではありませんでした。彼らは神様のお心から遠く離れていたからです。

 

マタイ2章には、その後しばらくして東方の博士たちがやって来たと記されていますね。ユダヤ人の王はどこでうまれましたかと、ヘロデ王のところにやって来たのです。ところが、ヘロデ王のしたことは何だったでしょうか。自分以外の王となる候補は殺してしまえ、といってベツレヘムの2歳以下の子供を殺害させたのです。

 

ですから、神様がこのすばらしいニュースを伝える人々としてこの羊飼いたちを選んだのです。彼らは純粋にこの良い知らせを喜んだのです。預言されてからその成就をずっと待ち望んでいたのです。救い主の誕生を心待ちにしていたと思います。

 

突然、み使いが強い光で周りを照らしたのです。主の栄光がありました。彼らは見たことのないこの強い光、神様の栄光を見て非常に恐れたとあります。怖かったのです。

 

人はどんな時恐れるでしょうか。自分が危険にさらされるとき恐れますね。この羊飼いたちもこの強い神の栄光で、もしかしたら死んでしまうかもしれないと思ったのです。だから恐れたのです。

 

でもこの御使いは素晴らしいニュースを届けに来たのです。「怖がらないでいいのです。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを伝えに来たのです」と言いました。

「今日、救い主がお生まれになりました。この方こそキリストです。その方は、飼い葉桶に、布にくるまれて寝ています。」そう言い終わると、空一杯に天使の軍勢が現れれて神様をほめたたえました。賛美の声が響き渡りました。

 

「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 

この歌声はどんな歌声だったでしょうか。私の大好きな賛美で、ヘンデルのハレルヤコーラスというのがあります。この歌は世界中で愛されている賛美の歌ですね。ソプラノ、アルト、テナー、バスとコーラスが重なり合って本当に美しい感動的な歌声を響かせるのですが、ここでの天使らの歌声は、人間のコーラスの何百倍も整っていて荘厳で美しい響きだったと思います。この天使らのコーラスにこの羊飼いたちもうっとりと感動したのです。大拍手を送ったと思います。

 

目の前の大空に繰り広げられた、前代未聞の大劇場の歌声に聞き入った羊飼いたちは、感動した後、どうしたでしょうか。もう天使たちは天に帰っていきました。野原にいるのは自分たちだけです。

 

彼らは、天使の告げた御告げを無駄にしませんでした。「そうだ。すぐに行って確かめて来よう。飼い葉桶に、布にくるまれて寝ている救い主を礼拝しに行こう」そのように言うと、すぐに町に出かけて行ったのです。

 

ベツレヘムの町は小さな町です。しかし、いったいどこにお生まれになったのだろうと捜しました。「飼い葉桶、飼い葉桶と。家畜小屋、家畜小屋と。どこの家畜小屋かな。」ふと、立ち止まって考えました。「人間の子どもが家畜小屋で生まれるだろうか?なんかの間違いか?」

 

今は住民登録で町はごった返している状態だ。きっとどこかの宿屋に泊まっているに違いない。部屋が無かったに違いない。すぐに予想がついたと思います。「そうだ。宿屋と言えば、ああそこと、あそこと、あそこと、あそこだ。」片っ端から当たりました。すると、すぐに見つけたのです。天使のお告げの通りでした。そこで生まれたばかりの救い主イエス様を見て、礼拝したのです。長い間待ち望んできた救い主がお生まれになった、そのことを喜び、イエス様を礼拝しました。

 

彼らの帰り道の様子はどうだったでしょうか。2:20をお読みします。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 

羊飼いたちは、神様が自分たちと救い主の誕生の場面に立ち会わせてくださったことを心から感謝したのです。「こんな箸にも棒にもかからないような、貧しい自分たちに神様は現れて下さった。すばらしい最高級の天使のコンサートを聞かせてくださった。そればかりか、救い主誕生という、この素晴らしい喜びの瞬間を立ち合わせて下さった。なんと感謝なことだろうか。」なんと彼らは、神様をあがめ、賛美しながら帰って行ったというのです。

 

皆さん。羊飼いたちは特別な恵みをいただきました。そして神様を賛美したのです。私たちもその特別な恵みにあずかりたいものですね。でも、私たちは、そのような特別な時でないときも、いつでも神様を賛美しようではありませんか。

 

なぜなら、すでに私たちは特別な恵みを神様からいただいているからなのです。イエス様の十字架の恵みです。イエス様の永遠のいのちにあずかる救いをいただいています。これ以上の恵みはありません。これ以上の喜びもないのです。私たちが賛美し、礼拝する材料はもうすでに私たちの内にあるということです。ハレルヤ。

 

   

 

 

 

 

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