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私たちの使命は何か

Ⅰコリント12:14-27
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

最近車が途中で止まったりとかの故障にあまり出会いません。自分の車もここ数年故障していません。それだけ、性能が上がったといってもいいでしょう。

しかし、昔はよく故障していました。この写真を見てください。これはなんでしょうか。点火プラグという部品です。一つの車に4つほどついていますが、こんな小さな部品ですが、これにすすが溜まって汚れてくると、うまく点火ができなくなります。エンジンがうまく爆発しなくて力が出ないようになります。ですから、昔はここを取り外して自分でやすりで時々磨きなさいと言われました。最近は自分で磨きなさいとはあまり聞いたことがありません。エンジンも点火プラグも性能が上がってきたのだと思います。

これは何の写真でしょうか。そうです。バッテリーです。車のエンジンを最初に動かすときに必要です。これが故障すると全く車は動きません。昔乗っていた車はよくこのバッテリー切れで止まることがありました。ラジオや音楽などで電気を使いすぎでした。しかも、メンテナンスを怠っていました。むかしは、液を補充する必要がありました。最近のバッテリーはメンテナスフリーといって自分で液を補充しなくてもよいものも登場してきました。

車はいろんな部品で成り立っていますが、一つ一つがなくてはならない部品で構成されています。あの小さな点火プラグの小さな隙間が調子悪くなると走りがおかしくなるのです。今日は、私たち一人一人はキリストの体であり、その部分であるということに目を留めていきましょう。

Ⅰコリント12:27をもう一度お読みします。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

驚きのお言葉ですね。私たちはひとりひとりがキリストのからだになっていると記されています。そしてそれぞれからだのパーツを受け持っているというのです。

目に見えるところから言うと、ある人は髪の毛、ある人は耳、ある人は目、ある人は鼻、ある人は口、ある人は首、ある人は手、ある人は足…。そのように体のパーツとして生きているというわけです。そして体全体がキリストご自身を表すというのです。私たちがキリストご自身を表すことができるとはなんとすばらしいことではないでしょうか。

人間の体は、すべて調和して生きています。ある人が、イスに座っていました。喉が渇いたので、心の思いの中に近くのコンビニに飲み物を買いに、歩いて行きたいという思いが起きます。すると、身体全体が動いて協力体制に入ります。

まず、立ち上がります。そのためには足全体の筋肉がグイと働いて体を持ち上げます。足以外にも、腰、胸、首、背中、腹筋、身体全体の筋肉が協力して働きます。もし、どこかの筋肉が非協力的だったらどうなるでしょうか。腰を痛めるでしょう。

もし、土ふまずや足の指が「ああ、行きたくない」と言って非協力的だったらどうなるでしょうか。もう大変です。からだ全体が転倒してしまいます。

私たちは、そのほかのからだの多くの機能を働かせてやっとコンビニに行くことができます。もし目が非協力的だったら、前に歩くこともできません。自分の力で商品を選ぶことも買うことも困難になります。

ここで聖書は何を言いたいのでしょうか。私たちひとりひとり、それぞれが、大切な体の一部ですと言っています。誰一人、不要な人はいないのです。大切な機能、部分を担っているのです。その部分が傷んだり、欠けたりすると、もう大変なのです。

人の内臓の中に、長年、その役目がよくわかっていないものがありました。盲腸にくっついている虫垂という器官です。でも最近その重要な働きがあるということがわかっています。

この小さな虫垂が大腸の免疫防御機構の司令塔の役割を果たしているそうです。その中に、免疫担当細胞が豊富にあって、その細胞が必要に応じて大腸にまで広がっていくそうです。なんかの時の出番待ちをしているわけです。ですから、健康な人の虫垂を取ってしまうと、大腸の免疫機能が低下してしまって病気になってしまいやすいと言うわけです。

ですから人には、何一つ不要な器官などないわけです。私たちはひとりひとり、全能者なる神様の作品なのです。それも最高傑作品なのです。ですから、不要な器官などないのです。みなそれぞれが尊い器官なのです。勝手に進化したり、退化したりはしていません。造られた当時のままを保っているのです。それが聖書の教えです。私たちはそれを信じています。

イザヤ43:4節をお読みします。
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

私たちは、皆自分の体を大切にします。1日を終えて体が疲れたら、ベッドに入って休みます。体をいたわります。
次の日もいいパフォーマンスを発揮できるように準備をします。体の調子が悪くならないように気遣います。

ときどき、部屋の中を歩いているだけで、足をぶつけたりします。「あいたたたー」となるわけですが、痛めて初めてその大切さを実感します。自分の体がいとおしくなります。あー、もっと大切に大事にしないといけないなと思います。自分の体の一部は、ほかのものと取り換えることはできません。それほど大切です。

神様は、私たち一人一人のことをご自分の体のように大切に思っておられます。そしてあなたは高価で尊いと言われています。なんと感謝なことではないでしょうか。

キリストの体の一部であり、高価で尊いと言われている私たちですが、その働きや使命はいったい何でしょうか。

Ⅰコリント人6:19-20
をお読みします。
6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

この聖書の箇所は、さらに一歩進んで言っています。私たちのキリストのからだの一部になった、そしてそれは神様が買い取ったと言われています。

だれから買い取ったのでしょうか。どのようにして買い取ったのでしょうか。サタンに奪われていた私たちを、サタンから買い取ったのです。買い取ったという表現は、何か商売した、取引したという感じで何か変ですが、サタンから支配権を奪い返したということです。そのためには、代価が必要でした。その代価とは何ですか。

それは、キリストの十字架の死という代価です。その時に流された血です。どうしてもその代価が必要でした。そのために、父なる神は、御子イエスキリストをこの地上に送ってくださいました。これが福音です。神の御子イエス様のいのちが引き換えにされました。ものすごく大きな犠牲ですね。それが神様が支払った代価です。

そのようにして私たちは神様に買い取られました。神の所有となったということです。神様のものとなった。ですから、ここでは、自分のからだで神様の栄光を現わしなさいと言われています。

神様の栄光を現わすとはどんなことでしょうか。どのようにして栄光を現わすことができるのでしょうか。

ひと言でいうと、そのことを通して神様がほめたたえられるということです。私たち自身ではないのです。神様ご自身に栄光が帰されるということです。そのこととは、どのことですか。

私たちの生き方や考え方、私たちの行動や態度、ふるまいにおいて神様のすばらしさが表されることです。私たちのことば遣い、発言することなどが神様のすばらしさを表すということです。神戸改革派神学校校長 吉田 隆 師が災害救援キリスト者連絡会というホームページに、ひとつの論文を載せています。その中に、ある記事の引用がありました。紹介します。2011年3.11の東日本大震災の後の出来事です。

引用―

「なにもかもなくなったんだぁ」と家を流されたおばあさんが呟いた。「一人の孫は見つかったけど、下の孫はまだ見つからない。牧師さんきっと見つかるよね」と訴えるおじいさん…。叫びながら流されていく家族、友人をただ見つめるしかなかった人たち。一人一人を訪問し必要なものを聞き、用意ができる限り持っていく。目の前にいる苦しみ痛む人々への直接支援は、共にいることしかない。

訪問した家での出来事である。「あんたら何持ってんのか?」と聞かれた。「何も持ってません。だけど必要なものがあればできる範囲で揃えます」と答えた。「おらなんにもいらねえ。ただあんたら来ると元気になるべ。あんたらキリストさんしょってっからな」と言われた。私たちは何も持っていなくても、キリストを持っているということを教えられた瞬間だった。神様から派遣されることの深みを教えられた。何もできないけれど、キリストがここに立っておられる。そのキリストが被災者に寄り添っておられる。そこに、み言葉がある。「となりびと」とは「寄り添いびと」である。
(『説教黙想アレテイア』特別増刊号「危機に聴くみ言葉」117頁)-引用終了

私たちがイエス様のお心を行うとき、私たちには外見上何もないように見えても、人々から見たらイエス様が見えているということです。これが栄光を現わすということだと思います。私たちの生き方や考え方、私たちの行動や態度、ふるまいを通して神様のすばらしさが伝わることはなんと感謝なことではないでしょうか。

Ⅰコリント10:31をお読みします。
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

パウロは、ここでクリスチャンたちを励ましています。あなたがたは何をするにしても、神の栄光を現わすことを考えていなさいと。このことは信じる者、私たちクリスチャンたちの
めざす姿でもあります。もっと神の栄光が現れるようにと願ってやみません。人々が私たちをとおして神様ご自身に触れることができれば本当に幸いです。

Ⅱコリント人へ5:15をお読みします。
5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

イエス様が私たちのためにいのちを注ぎだしてくださったからには、私たちもイエス様のために生きることをしようではありませんか。といっても、キリストの奴隷のようになることではありません。キリストの体の一部として、その一部らしく生きるということですね。

もし、イエス様を信じた後も、「いいえ、自分の人生だもの、私は自分のために生きるわ。」と言うならば、それは体の一部としては十分に機能できなくなります。

私たちは神様の所有とされました。それは驚くべき祝福なのです。この地上の命を終えた後、私たちは永遠の住まいが待っています。そこは、天の御国です。神の義が支配している国です。その御国に行く日まで、私たちは神様の栄光を現わしていこうではありませんか。

自分自身のために生きても、あっという間に過ぎ去って何も残りません。イエス様のために生きてそのからだの一部となるなら、やがて御国に入るときに「よくやった良い忠実なしもべよ」と声をかけられます。私たちは、キリストの体の一部として自分自身を捧げていこうではありませんか。

今日は、私たちがキリストのからだの一部分であるということを見てきました。そして神様は私たちひとりひとりを尊い器官としておられます。だれひとり、役に立たない器官はないのです。たとえ、隠れた器官だったとしてもなくてはならない存在であり、重要な器官なのです。感謝です。私たちを神様の栄光を現わすために用いてくださいと祈っていきましょう。