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誰がキリストを釘付けにしたのか

テキスト
マルコの福音書15:22-32
15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
15:32 キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。

イエス様は、弟子たちと過越しの祭りを祝ってともに集まって食事をしました。これは最後の晩餐と言われています。その後、ゲッセマネの園に行って祈ります。イエス様にとっては血の汗を流すほどのものすごい苦悩の祈りでした。

どのように祈ったでしょうか。「父よ。どうぞこの十字架をわたしから取り除けてください」と祈りました。十字架にかかることが父なる神のご計画であり、そのためにイエス様は来られたのです。けれども余りの苦しさにイエス様はそのように祈られたのです。

イエス様の苦しみはどこから来たのでしょうか。死ぬことへの恐れではありませんでした。十字架で釘付けにされることの恐ろしさでもありませんでした。ではイエス様の苦しみとは何だったのでしょうか。それは全人類の罪を背負って罪ある者となることです。どんな極悪非道な罪人よりももっと極悪な人間となるということでした。

これは、まさに全く罪のない聖いお方、父なる神とは完全に異なる姿です。まったく交わることのできない姿です。これは神様からの分離を意味しています。これまで父なる神様と一体であったお方が、父なる神様と切り離されることがわかっていました。そのことが一番の苦しみでした。

ゲッセマネの園で何度も祈られた後、ついに逮捕されるときが来ます。逮捕されてどこに連れていかれたのでしょうか。祭司長、律法学者たちの尋問が待っていました。そして「神への反逆者」として裁かれました。そして死刑執行してもらうために総督ピラトの判決を受けに
連れていかれました。

ピラトはいろいろと取り調べますが、死刑にあたるような極悪な罪を見つけることができませんでした。しかし、集まった人々の圧倒的な声についに負けてしまいます。彼は手を水で洗って、「そんなに死刑にしたければするがいい。しかし、この死刑の責任は私にはない。」と言いました。

ピラトは、自分がこの死刑執行に不本意であることを示す一つの証拠を残しました。それは何だと思いますか。そうです。それはその罪状書きです。15:26には
15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
とあります。もし「自分はユダヤ人の王である」と主張したのであれば、多くの人民を惑わしてローマ支配を覆そうとした反逆罪とか、嘘をついて人民を惑わした偽証罪とか掲げそうです。「あなたの罪は、死に値する極悪非道の罪ではない、せめて罪状書きだけは『ユダヤ人の王』というあなたの主張を掲げてあげましょう」と、ピラトの気持ちがこもっていました。ピラトの不本意が現れています。

これに対してユダヤ人指導者たちは、文句をつけました。罪状はそうではなく、「ユダヤ人の王であると主張した」という罪にしてくださいと要求したのです。でもピラトは応じませんでした。

イエス様が死なれたのは、ご自分の罪の結果ではないことがこのことからもよくわかります。

ここで立ち止まって考えてみましょう。イエス様を十字架につけたのは、いったい誰だったのでしょうか。もちろん、総督ピラトが裁判を行い、その執行を許可しました。でも本意は違っていました。しかし、彼は正しい判断を貫くことができませんでした。民衆の声に負けてしまったからです。それは民衆の暴動を恐れたからでした。恐れという弱さに負けたと言ってもいいでしょう。どんなに上に立つ支配者にも弱点がありますね。

今日のテキストから、イエス様の処刑に関わった一人一人を見ていきましょう。

ピラトの命令を受けて実際に十字架刑を執行した人たちは誰だったでしょうか。そうです。ピラトの部下です。兵士たちでした。彼らはイエス様をさんざんあざけりました。イエス様のたくさんの噂を聞いていました。イエス様の教え、病気のいやし、死人を生き返らせたこと、救い主メシヤであることなど、いろいろ聞いていたのです。

その噂を聞いたうえでイエス様をあざけりました。ムチを打っただけではないのです。葦という植物の棒をイエス様に持たせて、「ユダヤ人の王様ばんざい」と叫びました。またこれで頭をたたいたり、目隠しをして殴りつけ、誰が殴ったか当てて見ろと馬鹿にしたのです。つばをはいたりもしました。
彼らは死刑を執行するものとして命じられた者です。上からの命令に従ったのですが、それ以上に自分の権威を使ってその罪人をやりたい放題、痛めつけていたのです。

イエス様の死刑にさらに苦しみを加える人たちがいました。そのうちの一人は、イエス様と一緒に十字架にかかった強盗です。彼らは強盗の中の強盗、極悪な人物でした。イエス様の右と左にイエス様を挟むようにして十字架にかけられました。
その一人が言ったのです。「お前はキリストだろ。自分と俺たちを救え。」この強盗もイエス様のことを馬鹿にしたのです。

イエス様を極悪人で挟んだということは何を意味しているでしょうか。イエス様の極悪さを強調しようとしたということですね。イエス様も同じ極悪人だったのだとすべての人に認識させたかったのです。

そして旧約聖書イザヤも次のように預言しました。口語訳で読んでみます。
イザヤ書 53:12
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

「とがある者と共に数えられた」とあります。まったく罪のないお方、イエス様が、完全な極悪人、罪人となったということです。それは、私たちの罪を背負われたということです。実際に強盗と一緒に十字架にかかりました。

イエス様の死刑にさらに苦しみを加える人たちがいました。通りすがりの民衆です。15:29-30です。
15:29 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。
15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

あれほど、イエス様が救い主メシヤだと言っていた人々の中にも、「なんだ処刑されてしまったではないか。期待外れだ。この大ウソつきめ。メシヤとして我々ユダヤ人を救ってくれると思っていたのにがっかりだ」といってイエス様をののしったのです。

イエス様の死刑にさらに苦しみを加える人たちがいました。イエス様を最初から死刑しようと計画してきた人々です。祭司長たちと律法学者たちでした。15:31-32です。
15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
15:32 キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」

「ほらみろ、何にもできないではないか。ユダヤ人の王だなんて、ただの嘘つき、ほら吹きではないか。俺たちに歯向かうやつはこういう目に合うのが当然だ。」そのように言ってイエス様をあざけりました。

この祭司長、律法学者とはどのような人たちでしょうか。彼らは立場のある人たちです。権威を持っていました。知恵も知識もまさっている人々です。地位と名誉がありました。多くの人々から尊敬を受けていました。

でも、真理から遠かったのです。神様のお心から遠かったのです。この祭司長たちや律法学者たちは、権威ある者の代表です。ほかの人の意見よりも自分の意見に権威がありました。ほかの人の考えよりも自分の考えが大切でした。彼らの見かけは、神様の教えに生きる忠実な人々でした。でもそれは見かけだけだったのです。権威主義、伝統主義でした。中身がなくなっていたのです。

言ってみれば、彼らは私たちの自我を表していますね。自己中心の心です。神様のお考えよりも、自分の考えが大切という心です。自分は、自分の思う通り、生きていきたい。だれにも指図を受けたくない。その自己中心の罪がイエスさまを十字架につけたといってもいいでしょう。その神様に背く罪を誰でも皆持っているということです。

兵士たちとはどのような人たちでしょうか。上からの命令によって実際的に刑罰を加えた人たちでした。

イエス様を直接痛めつけました。イエス様を実際に十字架につけ、太い釘を打ち込んだのです。兵士というのは上の命令には絶対服従です。そのように指導されていますね。彼らは、自分の意思で自分の判断でイエス様を十字架につけませんでした。上からの命令でした。従わないといけないという、仕事上の義務を負っていました。

しかし、彼らは上からの命令以上に、プラスアルファーの自分の方法、自分なりの侮辱をイエス様に加えました。

私と兵士とは何の関係もないと思うかもしれません。でも、生きていく中で、成り行きでイエス様に逆らうということもあるのです。多くの人が言っている、やっているから自分もそれに従おうとなるわけです。仕事だからしょうがない。自分だけが悪いのではない、皆同じことをやっているのだからいいでしょう、と言い訳をします。私たちの内にもこの兵士の心があるのです。

その兵士のような心がイエス様の手と足を釘で打ちつけたのです。

いっしょに十字架についた、この強盗たちは、どんな人たちだったのでしょうか。この強盗たちについては、聖書はあまり詳しいことは書いていません。しかし、イエス様が裁判にかけられた時、バラバという極悪な殺人犯が捕らえられていました。ピラトは、「こんな極悪非道なバラバと、人々の病気をいやしてくれたユダヤ人の王とどちらを選ぶのか。」といってイエス様を釈放しようとしました。しかし、人々はバラバを選んでしまいます。

このバラバは、本来なら死刑にされる運命にあったと考えられます。だから、ピラトは、バラバとイエス様を天秤にかけさせたわけです。バラバは、暴動を起こした主犯格で、人殺しと強盗で捕らえられたのです。

バラバとは違いますが、イエス様と一緒に十字架につけられた2人の強盗も同じような極悪人だったと思われます。だから死刑になったのです。そのうちの一人がイエス様を激しくののしりました。

この極悪非道の強盗は、私たちと何の関係があるでしょうか。とんでもない、これまでまじめに生きてきました。こんんなのと比較されては困ると思うでしょう。でも、この強盗たちは私たちの代表です。

多かれ少なかれ、私たちはいろんな罪を犯します。表に出る罪もあれば、出ない罪もあります。日本の刑法では取り締まらない、心の中で犯す罪もあるのです。この強盗たちは、どんな罪でもわたしが背負うと言われたイエス様の罪人の代表です。そして私たちの代表です。

イエス様のことを聞いていても、俺には関係ないという無関心の代表でもあります。だからイエス様をののしりました。私たちもイエス様を信じる前は無関心でした。神様なんていらない。自分の力がすべてだ。多くの人はそのように生きるのです。見かけは何かを信じているように見えても、それは自分勝手な自分の方法で信じているだけです。都合が悪くなると簡単に捨ててしまいます。

通りすがりの人々はどのような人たちだったでしょうか。もちろん、どこかに用事があって、ただの通りすがりの人もいたでしょう。しかし、「今日十字架刑があるらしいよ。行ってみて来ようではないか。しかもその中にあのイエスがいるらしい。あれだけ、神の国について語っていたのに大嘘だったのか。悪を行った結末がどんなことになるのか、見て来よう。そして思いっきり罵声を浴びせて来よう。」 隣の人と誘い合って出かけたのではないかと想像します。

ただの通りすがりが、わざわざイエス様にののしるような言葉をあびせるでしょうか。しません。そのような人は、遠くから傍観しているのです。でもこの通りすがりの人たちは、イエス様の近くまで寄って来ました。そしてイエス様によく聞こえるように大きな声でののしったのです。彼らはイエスさまお言葉を聞いていました。けれどもそのお言葉が心に届かなかったのです。というか、すべてを受け入れなかったのです。そのお言葉につまづいてしまったのです。彼らも、自分の生き方にこだわったのです。そしてイエス様に反発しました。だから、わざわざ出かけて近づいたのです。
この通りすがりと私と何の関係がありますか。この通りすがりは、イエス様のところに近づいて行ってその上で背いた人達の代表です。彼らは福音を理解できませんでした。そして反発したのです。私たちの中にも、聞くには聞くが受け入れない、聞くには聞くが悟らない、そのような心があるのではないでしょうか。この通りすがりはその代表です。

祭司長、律法学者、兵士、強盗、通りすがりと今日のテキストに登場する人物たちを見てきました。彼らはイエス様を十字架につけた代表です。しかし、私たちの代表であって、私たちもその中にいるのだということを心に留めていきましょう。

ルカ23:34をお読みします。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

イエス様は、自分を十字架につけた一人一人のために祈ってくださいました。「彼らは罪人の代表であって、わたしはすべての人のために、その罪を背負って刑罰を受けるのです。だから、彼らの罪をお赦しください」、とそのように祈ってくださいました。

この十字架上の祈りは、直接関わった一人一人のための祈りであるとともに、今に生きる私たち一人一人の為の祈りでもあります。


今日は、イエス様が十字架にかかられた場面を見てきました。だれがイエス様を十字架にかけたのか。2000年前の話で、いろんなイエス様を憎む人たちの仕業という単純なことではないのです。

彼らは私たちの代表です。イエス様は私たちすべての人の罪のために身代わりとなって十字架にかかられたからです。私たちの罪がイエス様を十字架にかけたと言ってもいいでしょう。釘を打ち付けたのは私であり、あなたなのです。そのことを心に留めていきましょう。

でもイエス様は、その私やあなたのために、「父よ。彼らをお赦し下さい」と祈ってくださいました。そしてそのお祈りがあったので、私たちはイエス様のところに来ることができました。感謝です。