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岩の上に家を建てる


テキスト
マタイ7:24-27
7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」

今日のテキストは、イエス様の山上の垂訓と呼ばれるところの一部です。その直前では、良い実を結ぶことの重要性について言われました。「ですから」という言葉は、その後に続いているわけです。

良い実を結ぶことと、賢い人が関連しています。その人は、家を建てる場所をしっかりと吟味するというわけです。

日本も沖縄も島国で、どこにでも家を建てられるというわけではありません。海が近く、山もあって川もあって地盤が弱い場所も多くあります。大きな地震で山崩れがあったり、大雨で川が氾濫したりと毎年のように災害が起きています。

沖縄は大きな川が少ないですが、県外では大きな川がたくさんあります。見た目は整地されてきれいで頑丈そうに見えても、もともとは川が通っていて埋め立てたという場所もあったりします。ですから、住宅建築の専門家は、昔の地図も広げてよくよく吟味しなさいと言うわけです。

前に住んでいた場所が、すぐ近くに丘があって、大雨が降るたびに大量の水が流れて来て、家の目の前が川のようになっていました。小さな15cm幅の小さな水路が通っていましたが、すぐに溢れて屋敷内に流れ込んできていました。沖縄が台風が多いですね。そのたびに大雨が来ます。何度も何度も床下浸水を経験しました。次第に柱に狂いが出て、床が傾くようになっていました。

これは、土地の整地が悪かったというか、水の流れが悪い地盤だったわけですが、今では、少し大きな水路が整備されて大雨のときでも心配がなくなりました。

イエス様はよくよく注意して岩の上に家を立てなさいと言われています。そうすると、大雨でもびくともしませんよ、大風でもびくともしませんよ、と言うわけです。

これはたとえを話されたわけですが、岩とは何でしょうか。岩とはイエス様ご自身のことを指しています。岩の上に家を建てるとは、私たちの信仰の土台をイエス様のお言葉に置くということです。

「わたしの言葉を聞いてそれを行う者」と例えて言われました。聞いてそれを行う者です。その人は、イエス様の語られたことをを素直に受け止める人です。聖書のおことばを読んで、あるいは、聖書の話を聞いてそれを心に素直に受け止める人のことです。

素直に受け止めない人は、いろいろ言い訳をくっつけるわけです。「聖書にはこう書いてあるけど、今は時代が違うよ。」「聖書にはこう書いてあるけど、今はできない。後で気分が乗ったらやってみよう。」「聖書にこう書いてあるけど、これは自分にではなく、あの人について言っているものだ」となかなか自分のことに適用しません。

素直に受け止める人は、その受け止めたことを大切にします。そして何度もそれを思い起こして実行します。たとえできなくてもできるように努力します。やってみようとします。するとだんだんできるようになるわけです。イエス様はそのような人は岩の上に家を建てる人に似ていると言われるのです。

イエス様は岩の上に家を立てるように、「わたしのことばを受け取り、そして実行しなさい」と言われています。

イエス様は愚かな人についても言っています。この人は、砂の上に家を建てた人と似ていると言いました。だれも砂の上に家を建てる人はいません。

海岸にある砂場で遊んだ経験があると思います。大きな穴を掘ってそこに寝かせて埋めたりします。小さな子供はこの砂をスコップで固めて色々なキャラクターを作ったりします。でもいつまでもいつまでもそこに残ったりはしません。満潮で潮が満ちてくると、根こそぎ崩れ去ってしまいます。

砂地がどれほど倒れやすいもろい地盤であるかは誰でも知っています。一時的な店舗だったり、キャンプ場だったりで砂浜に仮の建物を建てることがあるかもしれませんが、あくまでも一時的なものですね。イエス様は、私の言葉を聞いてもそれを素直に受け入れない人は、愚かなひとですよと言っているわけです。素直に受け入れないわけですから、決して実行もしません。

イエス様は、私たちが実を結ぶことを願ってこのことを語られました。私たちは、だれでもこの地上での命を終える時があるからです。その時、「あなたはちゃんと実を結びましたね」、とイエス様が声をかけてくださいます。そのような賢い人をめざしていこうではありませんか。

イエス様のお言葉もそうですが、聖書全体が神のお言葉です。そのお言葉について聖書は次のことを記しました。
ヘブル4:12をお読みします。
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

神のことばは生きているとあります。不思議なことばですね。言葉が生きているとはどんなことでしょうか。聖書が動物のように動いて何か作用するのでしょうか。

これは、聖書に書かれているおことばそのものについて言っています。神様がそのことばの中に生きて働くということです。言葉を通して働くといってもいいでしょう。

皆さんも、ああ、あの時のあの人の言葉によって本当に力を受けた、励まされたという経験があるのではないでしょうか。人間のことばによってさえ力と励ましを受けることがあるのです。聖書のことばを通して神様が働いてくださるのは自然ですね。生きて働かれるのです。

今日はお読みしませんが、Ⅱ歴代誌1章の中に神様がソロモン王に「あなたに何を与えようか求めよ。」と言われた記事が出てきます。

ソロモン王は、何を求めたでしょうか。「知恵と知識をください」と言いました。「この民を正しく治める力は私にはありませんから。」 なんとソロモンは、自分の小ささを認めて神様の前にへりくだっていました。

神様はそのことを大変喜ばれて、ソロモン王に、知恵と知識をお与えになり、さらに富と財宝と誉を付け加えて与えてくださったとあります。新約聖書にも知恵のことば、知識のことばという聖霊の賜物のことが記されています。これは、神様から来る超自然の知恵と知識のことばです。だれも知りえないことを神様が教えてくださるものです。

ソロモン王が神様に求めたものもそれに近いと思われます。人間的な力ではなく、神様から来る知恵のことば、知識のことばを切に求めたのです。

ある時、ソロモンの元に2人の女の人がやって来ました。私たちの間を裁いてくださいと訴えてきました。この2人には、同じ時期に生まれた赤ちゃんがいました。ところが1人の母親が夜中、知らずに赤ちゃんの上に寝てしまって死なせてしまったのです。でもその母親は、死んでいない赤ちゃんと自分の赤ちゃんを夜のうちに交換してしまいました。

驚いたのは、生きている方の赤ちゃんの母親です。「その赤ちゃんがわたしの赤ちゃんです。返しなさい。」「いいや違う。返さない」争いが始まり、ついにソロモン王のところに訴えにやってきました。

DNA判定とかあれば問答無用ですぐに解決したでしょうけど、当時はそんなものはないのです。赤ちゃんの頃から、母親とうり二つなんていう赤ちゃんもいないです。他人では見分けがつきません。

ソロモンに神様によって知恵のことばがやってきました。「その赤ちゃんを真っ二つに裂いて半分づつ分け与えよ。」と家来に命じました。するとその母親たちはどうしたでしょうか。一人は「そうしましょう」と言い、もう一人は「決して裂かないでください、あの女に与えてください」と言いました。

みごとに正しい母親を見つけ出すことができました。神の言葉は生きていて力がありますね。

1960年代にインドネシアの教会で用いられたメルキオ・タリという先生がいます。その当時、インドネシアでものすごいリバイバルが起きていました。死人が生き返ったり、水がぶどう酒に変わったりと、まさに聖書の記事に出てくる内容が起きたと証しています。

あるとき、メルキオ青年が、チームで小さな村に伝道旅行に出かけたそうです。多くの人々が福音を聞いて悔い改めたそうです。そしてたくさんの魔術や偶像の本を持ってきて焼いてしまったそうです。そしてますます聖書のことばに耳を傾けるようになっていったのです。

しばらくしてある人が、メルキオ青年のところにやって来ました。その人の息子の頬が大きく腫れて苦しんでいました。「あなたはイエスキリストがたくさんの病気の人をいやしたと言いました。そしてその方は生きていていつまでも変わらないと言われました。ならば、どうか、この病気の息子のために祈って直してください。」と言ったそうです。

この村人たちの信仰もすごいですね。福音を聞いて、聖書のお言葉をそのまま素直に受け止めて信じたのです。
メルキオ青年は、困ってしまいました。癒しの祈りをやったことが無かったからです。彼はしまったと思いました。癒しのことを語らなければよかったと思いました。

「主よ。どうしましょうか。」と心の中で必死に祈りました。すると、「祈ってあげなさい。祈って、あとはわたしに任せなさい。わたしがいやし主だ。」という声が心に響いたそうです。

彼は、意を決してその子供に手を置いて祈ってあげたそうです。すると、「あっ、次の約束がありますのでこれで失礼します」といって、祈った後、逃げるようにして帰って行ったそうです。「なんだ。祈っても直らないじゃないか」と文句を言われると思ったからです。

しかし、次の日の朝早く、その父親が彼の元にやって来たそうです。「あなたが帰ってあと、2,3分後になんとその頬の腫れている部分がつぶれてぺしゃんこになり、見る見るうちに良くなったのです。」と言ったそうです。メルキオ青年は自分の不信仰に気づかされました。

この父親は、聖書のお言葉を素直に、単純に信じたのです。いやされるという信仰を持ちました。そして期待したのです。そして神様が働かれました。み言葉を握ったのです。私たちがみことばを信じて握る時、神様が働いてくださいます。握ったり、離したりではなく、握り続けていこうではありませんか。

握り続けるということは、聖書の言葉を大切にするということです。心の中からなくなってしまわないように、何度も何度も口で告白して、暗唱して、毎日毎日唱えていくことです。死んでも忘れないというほど、握った聖書のお言葉が口から出てくること、これが聖書の言葉を大切にするということです。

詩篇119:105をお読みいたします。
119:105 あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。

私たちは、よく道に迷います。県外を旅行していたりするとしょっちゅう間違いますね。前もって地図を印刷して目印をつけて準備をしますが、いざ目の前に来ると高いビルが立ち並んでいて思ったほど目印がわからないのです。あてずっぽうで進んでみたものの、どうも違うということがよくあります。

東京に行った時のことです。もうぜんぜん方向がわからなくなっていました。そうだと思い、スマホを出して現在地を見てみました。便利ですね。自分がどこにいるのかを示してくれます。そして目的地がどこかを見ました。すると、全く反対方向に歩いていたことが分かったのです。

私たちの人生にも道を指し示すガイドが必要です。神様に祈る時、神様がわたしたちをガイドしてくださるのです。といっても、声は聞こえません。どのようにしてそのガイドを受けたらいいのでしょうか。一つの方法は聖書のお言葉です。聖書のお言葉は、私たちの間違いを正してくれます。間違った考え方を正してくれるのです。

愛の足りない人には、「あなたの隣人を愛しなさい」というお言葉を心に響かせてくださるのです。お金や物に執着している人には、「まことのいのちを損じたら何の益があるだろうか。金持ちが神の国に入るのは難しい」というお言葉を響かせてくださるのです。

私たちは、毎日そのお言葉を求めていく必要があります。毎日食事をとるように神様の聖書のお言葉を味わう必要があります。そこで神様が教えて下さり、導いてくださり、励ましてくださり、愛を語ってくださるからです。毎日です。

私たちは1食くらいはスルーできるかもしれませんが、2食でも3食でも食べなくてもぜんぜん平気だという人がいるでしょうか。朝ごはんを食べないだけでも元気が出ないですね。聖書のお言葉も味わっていかないと、私たちは霊的な元気を失っていくのです。信仰が弱っていきます。神様の愛の語り掛けを受け取る必要があるのです。毎日しっかりと霊の栄養である聖書のおことばを受け取っていきましょう。

結婚したてのころ、ずっと転職を考えていました。そして教員試験を受けて教師になろうと思ったのです。でも学力が全然足りませんでした。妻の協力があったのでなんとか仕事を辞めて、試験勉強に専念することができました。半年間プー太郎をしました。でも、ただ始めたのではなく、神様に祈ってどうぞ道を示してくださいと祈って始めたのです。

その時に次の聖書のことばが導かれました。イザヤ書37:30をお読みします。
37:30 あなたへのしるしは、こうである。『今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。

そのお言葉を読んだときに、「たとえあなたが仕事を辞めてプー太郎をしたとしても、あなたはやがて自分で種を蒔いて、それを刈り入れてその実を食べるようになるよ」と神様がそのように語って励ましてくださいました。大きな力を受けたのです。神のことばが生きていて、力があることを体験させていただきました。

イエス様は、わたしのことばを聞いてそれを行う者は岩の上に家を建てた人のようだと言われました。私たちは、その言葉をしっかりと心に刻んでいきましょう。そして、毎日のみ言葉生活に生かしていきましょう。

聖書は、心に受け取らなければ、聞く耳がなければただの文字になってしまいます。しかし、素直に心に受け入れるならば神様が生きて働かれるのです。

何か節目を迎えている人も、そうでない人も神のお言葉を求めていきましょう。主が語って下さるからです。

み言葉の生活をちゃんとしていなかったと思ったら、今日そのことを悔い改めていきましょう。その祈りをしましょう。

  

 

 

 

 

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