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新しく生まれる

テキスト ヨハネ3:1-15
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

ここに登場するニコデモとはどんな人物でしょうか。

まず、ニコデモは、ファリサイ人でした。そして議員でもありました。当時、議員というのは、71名ほどいて、ユダヤの最高議会と呼ばれていました。主にファイサイ派の人々がその座を占めていたようです。地位と名誉を持っている人だったことがわかります。

ファリサイ人というのは、ファリサイ派に属する律法学者のことです。旧約聖書の律法を細かく研究して、人々の生活に適用できるように解釈して人々を教えていました。律法の教師でした。

律法学者、律法の教師といっても、この学者や教師を職業としているわけではなく、別に職人としての仕事を持っていたと言われています。あの使徒パウロでさえも天幕づくりの職人をしていました。

ファリサイ派とはどんな派閥でしょうか。一般市民からすると、旧約聖書の専門家たちであり、しかも教師で指導してくれる存在でした。人々からは尊敬を受けていたのです。聖書に何度も出てきます。

しかし、イエス様は彼らを厳しく批判しました。彼らは、旧約聖書を厳格に守り行なおうとするグループでした。厳格といっても、そのほとんどは、その中の律法の中身を細かく解釈して、誰でも行うことができるようにして、その細かい規定を厳格に守るように指導するグループだったのです。たくさんの細かい規定が作られていったのです。

なぜイエス様は律法学者やファリサイ人を非難したのでしょうか。彼らが神の御心から遠く離れていたからです。律法を厳格に守るという思想は立派でした。最初のスタートは良かったのです。しかしだんだんとそれが形式化してしまいました。心を伴わない風習、しきたり、伝統の教えになっていました。神様が守るように教えたことと遠くかけ離れてしまったのです。

だから、イエス様は言われたのです。「彼らのことは放っておきなさい。彼らは、盲人を案内する盲人だ」 彼らは何もわかっていないということです。ファリサイ人は、これらの言葉に対してかんかんに憤慨しました。
ですから、ニコデモは、堂々と真昼間にイエス様のところに来るのではなく、夜こっそりとやって来たのです。彼はファリサイ人ですが、多くのファリサイ人とは違う行動をとったのです。ほとんどのファリサイ人はイエスは異端者だと考えていました。自分たちが教えて指導している習慣を守っていなかったからです。ニコデモは、仲間にもほかのユダヤ人にも知られないように、こっそりと夜やって来たのです。

しかし、ニコデモは聞いたのです。見たのです。イエス様の多くの奇跡を見ました。しるしや不思議を見たのです。教えを聞いたのです。このお方がもしかするとメシヤ、キリストなのではないか。彼はほかのファリサイ人よりも柔らかい心を持っていたことがわかります。真理を追い求める心がありました。イエス様のところを訪れて、直接イエス様の教えを聞いたのです。噂で聞くのではなく、直接です。

ニコデモには、ぜひイエス様に聞いて確かめたいことがありました。それは「あなたは救い主キリスト、メシヤなのですか?」ということでした。ずっと、心に引っかかっていました。しかし、自分のほとんどの仲間は、イエスは異端者だと決めつけています。ついに我慢できずにやって来たのです。

イエス様は、憐み深いお方です。ニコデモのことを心に留めていました。ファリサイ人でありながら、柔らかい心で神を求めている人でした。彼をなんとか救いに導きたい、そう願われたのです。

イエス様は、そのファリサイ人という仮面を脱ぐことがまず一番大切だと考えられました。単刀直入に言われました。
「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

あなたが持っているその仮面、心を伴わないうわべだけの行いや儀式、神の心から遠い律法の専門家、その律法に関する知識や知恵、その身分や地位、それらは神の国にふさわしくありません。それを捨てなさい。新しく生まれなさい、と言われました。

ニコデモはびっくりしました。「確かにわたしはあなたの言う通りメシヤだ。わたしを信じ、わたしについてきなさい」とは言われなかったのです。その代わり、自分を捨てなさいと言われたからです。
ニコデモは、反論もします。「どうしてこんな年になって生れ直すことができるのでしょうか?」

イエス様は、新しく生まれるとは、水と御霊によって生まれることを意味するのだと解き明かされました。イエス様はニコデモが真理を求めてイエス様のところに来たことがわかっていたので、ニコデモを厳しく批判することはしませんでした。そこに求める心があったからです。

ここに出てくる水とはなんでしょうか。聖書では、これは清めを表します。清められることで新しく生まれると言われました。

わたしたちは毎日生きている中で時々、罪を犯します。これらの罪はどのようにして清められるのでしょうか。ここに水って書いてあるから、シャワーを浴びて、どうぞ清めてくださいと言うのでしょうか。

いいえ。今の時代、イエス様がすでにその罪の代価をすべて支払ってくださいました。ハレルヤ、感謝です。しかし私たちにもやることがあります。十字架の前に出て、イエス様の前に出て、その罪を悔い改めることです。告白してその罪を捨てることです。十字架の前でイエス様の血の清めを受けるのです。そのことを通して罪の赦しが完成します。水のシャワーでもなくお風呂でもありません。

ここで言われた水と御霊によって新しく生まれるとは、罪を悔い改めることによって清めていただくということです。それは目で見える外側のことではありません。聖霊様が私たちの内側に行ってくださることです。ですから、イエス様は、水と御霊によって生まれると言われました。これらのことを通して聖霊様が私たちの霊を新しく生まれさせてくださいます。

イエス様はニコデモにそのことを説明したのです。水と御霊によって人は新しく生まれるということを解き明かしました。しかし、ニコデモはそれでも簡単には信じることができませんでした。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」

クリスチャンは、皆そのこと、新生を体験します。イエス様が私たちを新しくしてくださったことを身をもって体験させするのです。キリスト教は、神に書かれた理論でもなければ立派な教えでもないのです。キリスト教は、神様との生きた関係です。神様が実際に働いてくださり、触れて下さり、私たちを変えてくださるのです。この体験をした人がクリスチャンなのです。

だから、新しく変えられたクリスチャンは、確かに神様が今も生きて働いておられると実感をもって知っているのです。もう古い自分に戻ることはできません。この新しく生まれたことがあまりにも素晴らしいからです。ハレルヤ。

イエス様は、ニコデモにもう一つ大切なことを示されました。3:14-15をもう一度お読みします。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

ご自分が十字架にかかって死ぬということでした。そしてその死が大きな力を発揮すると言われました。

イエス様はここでモーセの蛇について言われました。モーセが青銅の蛇を作ってそれを旗棹のてっぺんにつけて掲げたように、わたしもあげられると言われたのです。

モーセはなぜ青銅の蛇を作ってそれを高く上げたのでしょうか。それは人々が不平不満を神様にぶちまけて、文句を言い始めたからです。荒野から火で燃える蛇が現れました。そしてその不平不満を言っている人を見つけて次々に噛んだのです。

モーセはその人々のためにとりなして祈りました。「主よ。どうしましょう。彼らを助けてあげてください。」すると、「青銅の蛇を作って高く上げなさい。噛まれた人たちがこれを見上げることができるようにしなさい」 実際、その人たちが見上げると、その噛まれた人たちは生きたのです。見上げない人たちは死んでしまったのです。

神様はなぜ蛇を掲げさせたのでしょうか。もっと美しい物や格好の良い物を掲げさせなかったのでしょうか。聖霊の象徴である鳩とか、イエス様を象徴する小羊とかではなかったのでしょうか。

蛇は何を象徴しているでしょうか。ここで蛇は人間に害を与えるものでした。呪いを表しています。どうしてあえてそのようなものを掲げたのでしょうか。イエス様は十字架でどんな存在となったでしょうか。木にかけらえてのろわれたものとなりました。しかし、イエス様のそののろわれた刑罰が、私たちへの救いとなりました。イエス様の十字架を象徴しているわけです。

この蛇は青銅で作られました。モーセの時代、青銅は聖所の器具に使われました。手や体を洗う洗盤という器具も青銅で作られました。動物のいけにえを焼くための祭壇も青銅がかぶせられたのです。この青銅が私たちを清める象徴となっているわけです。

このことは、今に生きる私たちへの実物教訓となっています。イエス様は、この青銅の蛇はわたしを象徴していると言われたのです。「わたしを見上げる者は救われる。しかし見上げない者は滅びてしまう。」ということです。イエス様は、わたしはそのために来たとニコデモに解き明かしたのです。そして言いました。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

わたしを信じて仰ぎ見る者は、滅びないで永遠のいのちを持つと言われたのです。このとき、このニコデモはイエス様が何のためにこの地上に来られたのか、そのエッセンス、最も大切な真理を直接聞いたのです。でもこの時ニコデモは、まだ信じていませんでした。半信半疑だったのです。でもすごい真理を告げられました。

バプテスマのヨハネはその真理を知っていました。だからイエス様のことを「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と紹介しました。

ニコデモは、やがてイエス様の言動を見ていくうちに、イエス様の語られた一つ一つが真実のことであることを知っていくのです。

このニコデモという人は、このあと聖書にあと2回登場します。

あるとき、イエス様が捕らえられそうになったことがありました。祭司長やパリサイ人が捕らえるように人を遣わしたからです。でも誰も捉えることができませんでした。そのときがまだ来ていなかったからです。

その時、このニコデモは弁護して言いました。「捕える前に、まずその人からよく話を聞くべきではないですか?」イエス様が不当に裁かれることをやめさせようとしたのです。ニコデモは、この方、イエス様がメシヤではないかという迷いをずっと持っていました。だから、仲間の扱いにたいして注意深くするように促したのです。

もう1回は、イエス様が十字架につけられた後の話です。

ヨハネ19:39をお読みします。
19:39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。

イエス様の埋葬の準備ために、没薬と沈香の混ぜ合わせた物を100リトラほど持ってきたと記されています。没薬は死体に塗って防腐処理をする薬です。沈香というのは強い香りをもつ香料です。線香の材料にもなります。100リトラというのは重さの単位です。30kgになります。これらはかなりの値段をするようです。

ニコデモが自分の財産をはたいて、そこまでしてもイエス様の埋葬のために準備をしたということです。このとき、ニコデモは昼間に堂々とやって来ました。もうこの時にはイエス様をメシヤと信じてイエスの弟子となっていたと考えられています。

イエス様が十字架にあげられた姿を間近に見たのです。最後の最後まで、この地上に来られた目的を余すことなく表された神の子イエスの姿を見てきたのです。そしてイエス様を受け入れたのです。

自分の鎧を外したのです。ファリサイ人という仮面の姿を外したのです。神様のお心から遠く離れた律法主義という宗教ではない、愛と憐みの心、神様を誠実に求める心を持つことが何よりも大切であることを知ったのです。うわべだけの信仰を悔い改めたのです。

そして彼は生まれ変わりを体験したのです。聖書にはニコデモの生涯についてそこまで記してはいません。でも彼が最後にとった行動から推測することはできます。彼が忠実な弟子となったと信じます。
今日はファリサイ人ニコデモについて見てきました。彼は、皆から尊敬された地位も名誉もある、律法の教師であり、最高議会の議員でした。でもイエス様から神の国から遠いと言われたのです。

そこでニコデモはイエス様の言われたように、自らの鎧を外して仮面を捨てて誠実に自分の心と向き合ったのです。私たちの救いは、形式的に儀式や律法を守ることではないと気づいたのです。そして罪を悔い改めたのです。新しく生まれ変わりました。私たちも内側を点検しましょう。神様の恵みをブロックしてしまう、鎧や仮面が無いでしょうか。それを取り除いていきましょう。

   

 

 

 

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