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やぎと羊を分ける

テキスト

マタイの福音書25:31-46
25:31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
25:32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。


今日のテキストの冒頭に、「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき」とあります。これは何を指しているでしょうか。いつのことでしょうか。

そうです。これはイエス・キリストの再臨の時です。人の子とは、イエス様ご自身のことを言っています。これは最後の審判のときを表しています。誰が誰を審判するのでしょうか。「すべての国の人々が御前に集められます」とあるように、イエス様がすべての国の人々をさばくのです。
この終わりの時には、すべての人がイエス様の前に出るようになっています。そして一人一人が一生涯でやってきたことの全てが記録されているノートが開かれます。

その記録によって裁かれることになるわけです。「イエス様、やめてください。これだけは開かないでください。」というような誰にも言えないような、恥ずかしいものも多く含まれているのです。でも一つ一つ調べられるのです。これが最後の審判の流れです。これは、まだ起きていません。これから起こることです。

いつ起こることでしょうか。イエス様がこのことをお語りになって2000年が経ちました。まだまだ遠い将来のことでしょうか。聖書の預言を調べていくと、この時はもう近いということがわかります。

ひとりひとり神の前に出てさばきを受ける様子はどのようなものでしょうか。ここに記されていることは、似たような動物を分けるようなものだと記されています。羊とやぎです。よく似ています。

どんなところが似ているでしょうか。どこが違うでしょうか。背丈も姿もよく似ていますね。鳴き声もよく似ています。「めぇー」と泣きます。羊は草を食べます。やぎも一緒です。人間はどちらの肉も食べますし、どちらのミルクも飲み、チーズも作ります。

違いは何でしょうか。
よく見ると、見た目が少し違います。羊もやぎも角があります。基本的にどちらのオスもメスも角が生えるそうですが、やぎの場合は人間の都合で切ってしまう場合が多いそうです。羊の場合は品種改良で角の
生えてこない羊が多いということです。

雄で比較すると、羊の角はらせん状に大きく巻いてくるのに対して、やぎの角は後方に斜めに曲がるといいます。

尻尾はどうでしょう。羊の尻尾は長くて垂れ下がるのが一般ですが、羊毛をとる品種では羊毛を守るために、人間が若い内に短く切ってしまうそうです。山羊の尻尾は一般的に短くてピント立っています。

わかりやすいのがアゴひげです。羊はアゴひげが無く、やぎはあごひげがあります。これで見分けがつきやすいのではないでしょうか。

毛はどうでしょう。羊の毛は柔らかくカールしています。羊毛としての商品価値が大きいです。山羊の毛は直毛で硬いのが一般です。毛としてはあまり重宝されないのです。

これが見た目ですが、どちらも草食で草を食べると言いましたが、やぎはそれに加えていろんなものを食べる雑食性を持っています。草だけでなく、木の枝や樹皮、野菜や果物、木の実なども食べますし、紙も食べたりします。食べ物で違いがあります。

次に大きく違う部分があります。性格です。羊の性格は、柔和でおとなしく、従順です。群れを作って集団で行動することが大好きです。そして平坦な場所を好みます。

やぎの性格はというと、高いところに上るのが大好きです。独立心が強く、単独行動を好む、すばしっこく、気まま、攻撃的と言います。

一度、やぎのいる家を訪問したことがありますが、近づくといきなり何も言わずに突進してきたことがありました。ほんとに驚きましたが、なんと首をロープでつながれていたので直前で守られましたが、もしロープがなければ思いっきり、このやぎに頭突きをされていたと思います。不審者と思ったのかもしれません。
羊とやぎの性格は全く違います。一方は大人しくて従順で、一方は自由奔放で、単独行動を好み、攻撃的なのです。

やぎのこの性質は長所ともなります。リーダシップ性があるということです。羊ばかりを飼っている羊の群れに一匹だけやぎを入れて飼うことがあるそうです。すると、羊をいろんな草原に連れていくことができるそうです。羊飼いはこのやぎをうまく手懐けさえすれば、羊は群れをなしてこのやぎにくっついて行くそうです。羊はくっついて行くのが大好きな動物です。やぎは小川さえも簡単に渡って行くそうです。すると羊たちはその後をくっついて小川を渡って行くのです。これがもし羊だけの群れだと、なかなか小川を渡ってくれないと言います。導くのにとても難儀をするそうです。やぎも大きく役立つことがあるわけです。

最後の審判の時、私たちは羊とやぎを分けるように分けられると記されています。これはイエス様はたとえで語られています。羊とはどのような人でしょうか。やぎとはどのような人を言っているのでしょうか。

イエス様は、人間の様子を羊にたとえて言われています。羊は、従順で素直で、自分の力に頼ることなく、立てられているリーダに素直に従っていくのです。羊の食べる物は羊飼いが示す草であるように、その人は、神様が与えてくださるみ言葉を読んで、これを大切にする人です。

一方やぎのような人は、単独行動を好み、従うことを拒む人を表しています。神様の声にも聴き従わない不従順な人を表しています。羊飼いが導く牧場にもついていくことはなく、自分の道を選んで好きなところに勝手に突き進む人です。

やぎが何でも食べるように、その人は良い物も悪い物もなんでも受け入れる人です。神様のお言葉以外にも多くの情報を心に入れて、心が定まらない人です。

今言ったこと以外に、羊のような人とやぎのような人を見分けるポイントはなんでしょうか。よく似ているというのです。でも見分けるポイントがあります。35節-36節をお読みします。
25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。

食べ物を分け与えたり、飲ませてあげたり、宿を貸したり、服をあげたり、病人を見舞い、迫害されて牢に閉じ込められた人を訪問したりすることが言われています。これは何でしょうか。これはイエス様を信じ受け入れ、イエス様に仕える人の実の現れです。

聖書はこれを御霊の実と呼びます。聖霊の語り掛けを受けて心が動かされます。そのような姿に作り変えられていきます。自分のことしか考えられなかった人が、聖霊様によって導かれ、しだいに変えられていくのです。これが御霊の実です。

イエス様は、これらの小さい者たちにしたのは、私にしたのですと言われました。私たちの目に見えるのは、どんなに目を凝らしてみても、イエス様ではなく、周りの困った方々でしょう。貧しい方々でしょう。でも、その方々に良くしてくれた人は、わたしに良くしてくれたのと同じですよと言われます。

ヨハネ10:3-4をお読みします。
10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
10:4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです

ここでイエス様は、羊のたちの特徴について言われました。羊は羊飼いから名前を呼ばれると言うのです。そして羊たちは彼についていくのです。彼の声がいつも世話をしてくれる羊飼いだとわかっているからです。

羊はその声を聞き分けることができるとありますね。クリスチャンもそうです。イエス様を信じてついていく人たちがクリスチャンです。彼らはすべてイエス様の声を聞き分けることができるということです。すべてのクリスチャンです。これが約束です。

一方、クリスチャンではない人や、見せかけのクリスチャンはイエス様の声を聞くことができません。というか、聞こうとしません。だから、実を結ぶことができなくなってしまいます。

最後の審判を受けて、羊とやぎの行き先が違ってきます。それぞれどこに行くのでしょうか。行き先はたくさんあるのでしょうか。

イエス様は、永遠の刑罰と永遠のいのちの2種類があるといわれました。
25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

この2種類しかないのです。言い換えると、ゲヘナと呼ばれる地獄と神の国、御国と呼ばれる天国です。
マルコ9:43-48をお読みします。
9:43 もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
9:45 もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
9:47 もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。
9:48 ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。

イエス様は、行き先はこの2種類しかないのだから、どんなことをしてでも御国に入りなさいと言われました。「あなたの手が罪を犯すのなら、それを切って捨てなさい。足が罪を犯すのなら、それを切って捨てなさい。目が罪を犯すのなら、それをえぐり出して捨てなさい」と言われます。

実際に自分の体を切って捨てるわけにはいきませんね。でもそれほどの覚悟で御国に入りなさいということです。天の御国に入るということは、何よりも大切ですということです。体のどの部分と比較しても、魂の救いを受けるということは最大の重要なことですよと教えているわけです。

御国とは、どのようなところでしょうか。御国は永遠の世界です。そこに入ると、永遠に神様と共にいて、神様の深い深いご臨在、平安、愛に満たされるところです。私たちはその中に入って、その愛を受けて永遠に神様を礼拝するのです。神様と交わるのです。そこが御国です。神様のご栄光が満ちた場所です。

一方、ゲヘナとはどんな所でしょうか。これはヘブル語で、「ゲ」は谷です。「ヘナ」はヒンノムという地名です。ゲヘナはヒンノムの谷という意味です。

ヒンノムの谷という場所はどんな場所かというと、かつてモレクという偶像が拝まれていた場所です。なんとその偶像崇拝者が子供を火で焼いた場所でもあります。ヨシヤ王という神様を愛する王が、この偶像を打ち壊して宗教改革を行いました。そしてこの場所は汚れた場所とされ、ここではいろんな汚物が焼かれる場所になりました。ゴミ焼却場です。いつでも火が燃えている場所です。

次第にその場所は、罪と災いの型となり、ゲヘナは地獄を表す言葉となっていったと言われています。

9:48 ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
とあるように、ゲヘナにはうじ虫がいて永遠に苦しめられるとあります。そして火で焼かれていくとあります。

死んだ後は、何の感覚もなくなる霊魂の世界に入るのではと思うかもしれませんが、終わり時にすべての人がよみがえると主は言われました。

ヨハネ5:28-29をお読みします。
5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
5:29 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

もし永遠に死なないよみがえりの体をもらって、永遠に苦しむとすればどれほど悲惨でしょうか。このことは本当に厳粛なことです。これは滅びるということがどんなに恐ろしいことか想像できると思います。

感謝なことに、神様は私たちが滅びないようにと手だてを与えてくださいました。それがイエス様の十字架なのです。

使徒の働きの中に、パウロが家族の救いについて語ったところがあります。使徒の働き16:31をお読みいたします。
16:31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

「なんだ、主イエスを信じると家族も全員救われるのか、良かった。家族の中で自分さえしっかり信じていれば他は信じていなくても大丈夫だ」、と言う風には考えないでください。このみ言葉は、家族もやがてイエス様を信じるようになりますよ、そして信じて救われるようになりますよ、ということです。誤解しないようにしましょう。

救いの定義は、ローマ人への手紙10:10にあります。お読みします。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

イエス様を信じるということが一番目です。2番目は口で告白することです。イエス様の十字架の刑罰、苦しみは、自分の罪のためであったことを信じて告白すること、そして、自分の罪を告白して赦しを求めることです。そしてイエス様を自分の神、王として心にお迎えすること、これが告白です。

これらのことを純粋に信じて、神の前に告白してささげることができた人は救われるのです。ですから、家族が救われるということは、この告白の段階まで進むと考えればいいのです。まだ家族が救われていないという人は、そのように導かれるように祈っていきましょう。求めていきましょう。

神様はご計画に従って、私たち人間を救うことを願われています。ガラテヤ1:4をお読みします。
1:4 キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。

イエス様は、私たちのために十字架にかかって死なれました。これが「ご自身を与えた」という意味です。

永遠のいのちを与えるために神様はひとり子イエス様を、この地上に送ってくださいました。それほど、私たち一人一人のことを大切に思って愛してくださっています。感謝ではないでしょうか。

  

 

 

 

 

 

 

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