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できるものならと言うのか

テキスト:マルコ9:14-29
9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」


今日は、イエス様のいやしと、スランプに陥った弟子たちについての記事です。マルコ9:14には、今日の出来事は、「彼らがほかの弟子たちのところに戻ると」と書いてありますね。彼らとは誰のことでしょうか。その前の記事を読んでみるとよくわかります。

「彼ら」とは、イエス様と3名の弟子のことです。ペテロ、ヨハネ、ヤコブの弟子のことです。彼らが戻る前にどこに行っていたのでしょうか。イエス様に連れられて高い山に登ったと書かれています。何をしに行ったのでしょうか。ハイキングでしょうか。美しい景色を見に行ったのでしょうか。
いいえ。イエス様はこの3名の弟子に特別に神の国を体験させてくださったのです。歴史的な預言者、エリヤとモーセと合わせて下さり、天の雲でおおって下さり、天の輝きを見せてくださったのです。ものすごい神のご臨在で覆われたのです。イエス様のお姿も本来の御子の姿に変わりました。光輝いていたのです。ペテロが言いました。「ここに幕屋を3つ造りましょう。」これは、そうすればこのすばらしい神の国をずっと味わうことができる、もう地上には降りたくありませんという意味です。あるいは、何度も何度もここに来て神の国を味わうことができるという意味です。

でも、イエス様とこの3名の弟子たちは、その高い場所から降りてきました。そこには地上の現実世界がありました。そこには問題と課題があったのです。

私たちは、頻繁にこの高い山に登って来て、神の国を味わう必要があります。ペテロの願いはかないませんでしたが、今私たちは、聖霊様を通してこの高い山に登ることができます。聖霊様が私たちの内に住んでくださっているからです。聖霊様が私たちの内に神の国をもたらしてくださるからです。神様のご臨在で満たしてくださるのです。何と感謝なことではないでしょうか。

私たちは毎日、この現実世界と対面し、課題解決に向かいますね。しかし、私たちは毎日、聖霊様の助けを受けることができますし、毎日高い山に登ることができるのです。高い山に登って聖霊に満たされていきましょう。自分の力でできないことを、聖霊様の助けをいただいて勝利していきましょう。課題解決をしていただきましょう。聖霊様がそのことを願っておられるからです。

彼らが高い山から下りて来たとき、群衆の間で何か議論が起きていました。イエス様は聞かれたのです。「何を議論しているのですか。」

すると、ある息子の父親がイエス様に言いました。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。でも弟子たちにはできませんでした。」

霊を追い出すことができなかったというわけです。弟子たちが何度かチャレンジしていたことがわかります。でもできなかったのです。このことが議論の発端でした。「なぜできないのか、なぜ追い出すことができないのか。」

律法学者もこの議論に加わりました。律法学者はイエス様に反対する人々でした。ですから格好の攻撃材料になると思ったと思います。「ほら見ろ、おまえたちにはできない。お前たちの先生がメシヤだなんて嘘っぱちに違いない」

その議論の様子を見ていて、そのわけを聞いてイエス様は落胆されたのです。「ああ、なんて信仰が無いのか」イエス様は、信仰のある人々を本当に喜ばれましたが、不信仰の人々を本当に嘆かれたのです。

この口を聞けなくする霊とはどんな霊だったのでしょうか。
この霊は、この息子を所かまわず倒し、泡を吹かせ、歯ぎしりをさせ、からだをこわばらせる、そのような霊でした。この状況をみると現在のてんかんのような症状ですね。でもただのてんかんではありません。てんかんの症状を表す霊の仕業でした。

この後の説明を見ると、「殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込んだ」とあります。この霊の意思を伝えているのです。この父親はちゃんと霊的存在がこの息子を殺そうとしていることを知っていました。

わたしたちは、目に現れる病気を見て、これが霊的に攻撃を受けているものなのか、健康管理上のものなのかを見極める必要があります。もし、霊的に攻撃を受けているなら、その霊的存在に向かって権威を用いる必要があります。

この父親の信仰を見てみましょう。この父親はきっとイエス様なら、この息子を治してくれるに違いないと考えました。だから、イエス様のもとに息子を引っ張って連れて来たのです。ところが、イエス様はいません。仕方なく弟子たちにお願いしたのです。でも弟子たちにはできませんでした。きっといやしてもらえるという信仰がふっ飛んでしまいました。なぜそれがわかるのでしょうか。改めてイエス様のところに来てお願いしたときに、「もしできるものなら」と言いました。これがこの父親の信仰でした。

「きっと癒される」という信仰がいつの間にか、「もしできるなら」に変わっていました。この言葉の裏にあるのは「もしかするとできないかもしれない」という意味です。もうそこには信仰はないといってもいいでしょう。信仰を失っていました。

ですから、イエス様はこの不信仰を厳しく指摘しました。「もしできるなら」と言うのか、「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と。

イエス様はそれでも深い憐みの心でこの息子をいやされたのです。この父親に信仰が無くても、癒してあげました。権威をもってこの悪霊を追い出したのです。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」

このイエス様の祈りから多くのことを学ぶことができますね。悪霊を追い出すときには、その症状を表している霊についてちゃんと名前で追い出しています。ここでは口を聞けなくし、耳を聞こえなくする霊です。

そして「出ていけ、二度と入るな。」と命じました。私たちも同じやり方で命令することができます。その時は、イエス様の権威によって命じます。「イエスキリストの御名によって」です。

後に使徒の働き3章の中では、ペテロが命じたことが記されています。「ナザレのイエス・キリストの名前によって歩け」と歩けない人に命じました。するとその人は立ち上がって歩き始めたとあります。そのように、私たちが祈るときも、ただ祈るのではなく、「イエスキリストの名前によって」とその名前の権威を掲げる必要があります。

このペテロによるいやしの時は、原因が悪霊ではありませんでした。けれども、イエスキリストの名前の権威を用いたのです。ですから、どんな場合でもイエスキリストの御名を用いることが大切です。

この父親のように、私たちも、祈ってはいてもときどき、不信仰に陥ることがあります。もしかするとこの祈りはかなえられないかもしれないと。

でも、イエス様は言われました。マルコ11:24「 ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

ですから、不信仰に陥らないように気を付けましょう。み言葉に立ちましょう。くちびるで信仰を告白し続けましょう。

さて、この口を聞けなくする霊は、イエス様の権威にすぐに従って出ていきましたが、弟子たちには追い出すことができませんでした。

なぜ弟子たちにはできなかったのでしょうか。追い出す力も権威も、元々なかったのでしょうか。力も権威もないのに追い出そうとチャレンジしたのでしょうか。

同じマルコの福音書の3章と6章を見てみましょう。
マルコの福音書3章13-15をお読みします。
3:13 さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。
3:14 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、
3:15 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

マルコの福音書6章7,12-13をお読みします。
6:7 また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。
6:12 こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、
6:13 多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。

弟子たちは、前もって悪霊、汚れた霊を追い出す権威を授かっていたことがわかります。そして実際、その権威を用いて人々を解放し、癒していたことがわかります。

実際やり慣れたことだったのです。でもこの時はできませんでした。どうしたのでしょうか。どうしてできなかったのでしょう。弟子たちは不思議に思いました。そして悩んでいたのです。律法学者からは責められていました。たいへん苦しかったでしょう。そして悔しい思いをしていたのです。

そこで、家に入った時、そっとイエス様に尋ねたのです。「イエス様、どうして私たちにはできなかったのでしょうか。」イエス様は言われました。「この主のものは祈りが大事なのですよ。」

この祈りはどんな祈りなのでしょうか。聖書の訳によってはここは祈りと断食となっています。断食です。断食の祈りはどんな時にするでしょうか。特別な課題や問題に直面したとき、あるいは重要な決断をするときなどに、「さあ祈るぞ」と時間を確保して、決意をして祈ります。そのように、気合を入れて祈る必要がありますよというわけです。

イエス様はいつも父なる神様と祈って交わりをもっていました。時には、夜明け前に起きて、時には夜通し、時には山に登って、時には一人寂しいところに行って祈りました。父なる神様との祈り、交わりを本当に大切にしていました。

その父なる神様だけに頼るそのことができていれば、あなたたちにもできますよと言っているわけです。

私たちは、たいてい自分の力に頼ります。自分の健康、自分の体力、自分の能力、自分の才能、自分の経験、自分の財力、自分の人的ネットワークに頼ります。神様よりもそれらに頼ったりするわけです。

でも祈りによってそれら一つ一つを断ち切っていくわけです。祈っていくと、神様の前にはへりくだる必要があることがわかってきます。自分に力はないことを知ります。自分の力ではなく、神様に頼ることを学ぶのです。その時に、神様が働いてくださると約束してくださっているのです。

だから、私たちは、何かに取り組むときには祈りが必要です。私たちの働きを台無しにしようとする力、勢力があるからです。私たちには敵がいることを覚えておきましょう。そして敵の働きを封じるために祈る必要があるのです。

この悪霊を追い出し、病気をいやすことは、今に生きている私たちにもできるのでしょうか。

このことは私たちにもできると約束されています。マルコ16章17-18をお読みします。
16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
16:18 その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」

これはイエス様の約束です。「信じる人々には」と記されています。これは信じる人々に与えられるしるしです。悪霊を追い出すことができるとあります。また、後半には、病人に手を置けば癒されると書いてあります。

これは、約束です。ですから、この約束を信じて私たちも実行することができるのです。私たちには力が無いかもしれない。でもイエス様には力があるのです。ですから、私たちは、イエス様の御名、お名前を用いるのです。私たちの自分の名前ではありません。イエス様の権威あるお名前を使うことが重要です。これが鍵です。

ルカの福音書10:19をお読みします。
10:19 確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。

イエス様は、私たちに敵すなわちサタンの力に打ち勝つ権威を与えてくださいました。ですから、何も恐れる必要はありません。敵は私たちに害を何一つ加えることができないと書いてありますね。ハレルヤ、感謝です。私たちには勝利しかありません。この権威を用いていきましょう。

病気の人がいたら、積極的に声をかけて祈っていきましょう。そのとき、イエス様が御業を表してくださるからです。

今日は、口を聞けなくする霊をイエス様が追い出された記事を見てきました。イエス様がなさったように、私たちにも同じようなことをすることを主は願っておられます。それは、その病気をもった方々をいやすため、そしてその方々が病気から解放されてイエス様のいのちにあずかるためです。イエス様が救い主、メシヤであることを知ることができるためです。

ただ病気がいやされるだけなら、「あー、ありがたいことだ」で終わってしまうでしょう。でもその時、イエス様を信じて永遠のいのちにあずかることができるなら、その人は、永遠に神様の恵みにあずかることができるのです。

病気がいやされても、イエス様の救いにあずかることができないなら、その人の永遠はどうなるのでしょうか。2つの行き先の内、右か左かをその人自身が決めるのです。病気がいやされた時がチャンスです。「イエス様はあなたを愛していますよ。だからイエス様のもとに来ませんか」と導いてあげることができます。私たちは、人々の魂の救いを求めて病気のために祈っていきましょう。