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私たちの叫びを聞かれる主

 

テキスト:マルコ10:46-52

10:46 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
10:47 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。

 

皆さん、エリコという名前の町からどんなことをイメージするでしょうか。

 

聖書にも何度も登場します。エジプトから出て来てヨシュアが率いるイスラエルの民がヨルダン川を渡って攻め込んだ最初の場所がこのエリコです。ラハブという女性も住んでいました。新約の時代になると、取税人ザアカイが住んでいたところでもあります。

 

地理的にエリコという場所は、死海の近くにある町です。なので、海抜がものすごく低いのです。何と、-258の場所にあるそうです。その場所から、イエス様と弟子たちはエルサレムをめざして進んでいたのです。エルサレムは標高が800ありますので、1000mの山の登山をするような意識で登ってゆくことになるのです。ですから、イエス様がたとえ話をされた良きサマリヤ人の話が出てきますが、道が険しく、強盗で有名だったようです。

 

エルサレムに向かうその手前の町がエリコです。歴史は古く、世界最古の町とも言われます。その町をイエス様が通られました。ヨルダン川からエルサレムに向かう交通の要所でもありました。物流の拠点となっていました。ですから町が形成されて人々が多く出入りしていました。

 

そこにひとりのバルテマイという盲人がいました。彼は目が見えませんのでまともな仕事につくこともできません。生きていくためにやれることは限られていました。毎日にぎやかな通りに出て物乞いをしていました。彼の全財産と言えば、人々からいただいたわずかな小銭と、上着でした。上着と言っても、コートのようなもので、夜は寒さを防ぐ被り物でもありました。このコートは、お金を集める道具にもなりました。

 

そこで、いつもと違うにぎやかさが聞こえてきたのです。「ざわざわ。」「なんだこの騒がしさは?」

 

彼は周りの人々を捕まえて聞いてみたのです。すると、イエス様がこの町にやって来たことがわかりました。

 

何だって、あのダビデの子と呼ばれる救い主イエス様が?」彼は心の中で叫びました。「イエス様がやって来た?彼はあの死んだ娘を生き返らせたお方ではないか。死んだ青年を生き返らせたお方ではないか。死んで4日も経っていたあのラザロをよみがえらせたお方ではないか。」

 

「こそは、12年間も長血で苦しんだ女性をいやしてくださったお方ではないか。彼こそは、耳の聞こえない者をいやした方ではないか。彼こそは38も病に伏していた者をいやしてくださったお方ではないか。彼こそは、中風で動けなくなっていた人を癒やしてくださったお方ではないか。」

 

バルテマイはガリラヤ湖ベツサイダの村で起きた出来事を聞いていたと思われます。マルコ8:22-25をお読みします。

 

8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。
8:23 イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。
8:24 すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
8:25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。

 

イエス様の周りはいつも人々があふれていました。イエス様が彼らの病気をいやして助けてあげたからです。しかもイエス様は医者のように、金銭を求めませんでした。恵みのいやしを行われたのです。憐みの心で人々に仕えてくださいました。ですから、その噂を聞きつけた人々があふれていました。そのような良い知らせ、ニュースはすぐに広がるのです。バルテマイもきっと聞いていたと思います。

 

このベツサイダでなされた盲人のいやしは、イエス様が直接、目に唾をつけられて、そして目に手を置いて、癒しを行ってくださいました。すると、その盲人の目は次第次第に癒されていったのです。瞬時にではありませんでした。少しずつ良くなっていったのです。バルテマイはこの話を聞いて希望を持ちました。「イエス様が自分の目に手を当てていやしてくださるといいのに。

 

「自分は盲人で目が見えなくて毎日の食べる物にも困っている。彼こそは自分の目をいやしくださるお方だ。彼こそはあの聖書で約束されてメシヤに違いない。」

 

バルテマイは、これまで聞いていたイエス様のうわさを一つ一つ思い出しました。

 

バルテマイは思いました。「こんなところじっとしている場合ではない。イエス様のところへ行こう。彼に助けを求めよう。おっと、目が見えなくては、身動きがとれない。そうだイエス様を呼ぼう。叫ぼう。

 

彼は、彼にできる最大限のことをしました。大声でイエス様を呼んだのです。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」 彼は、自分の出る最大の声で叫んだのです。

 

ダビデの子とはなんでしょうか。イスラエル人にとっては、これはメシア、すなわち救い主キリストのことなんです。バルテマイがイエス様をダビデの子と呼んだということは、救い主キリスト様、神の子なるお方よ、ということなんですね。彼はイエス様を救い主として受け入れる信仰をもったということなんです。

 

近くにいた人々が耳を塞ぎました。もともと乞食ですのでなりふりもへったくりもありませんが、なりふり構わず大声で叫び続けました。「うるさい、黙れ、黙れ、乞食の分際で黙っとれ-」と人々から押さえつけられそうになりました。それでも彼はあきらめません。なぜでしょう。彼はイエス様に望みを持ったのです。彼こそは救い主だと信じたのです。彼について聞いてきたことを通して信じたのです。

 

イエス様について正しく聞くということは本当に大切です。自分も若いころ、イエス様について正しく聞くことができました。本当に感謝です。まっすぐにボールが、直球で心に入ってきたのです。変化球ではありませんでした。

 

若いころ、夜のゴールデンの時間に、ラジオで福音放送があったのです。その話に耳を傾けていると、イエス様こそ救い主なるお方、恵みと憐みに富んだお方、真実なるお方、正しいお方であると話されていました。「へー、そんなお方がいたのか」と聖書の世界に興味を持ったのです。

 

今の時代、宗教に対する風あたりが強い時代だと思います。道でトラクトを配布しても、何ですか、宗教ですか、結構です、とすぐに断られることが多いのです。福音を伝えたくても、それを妨害する横風が強く吹いている時代だと思います。

 

ですから、偏見なしにイエス様について正しく聞くことができるというのは本当に大切で恵みなのです。

 

このバルテマイは、イエス様についてたくさん聞いてきました。そして期待を膨らませていたと思います。「このエリコの町にイエス様が来ないかな。この通りをイエス様が通ってくれないかな。」来る日も来る日もその日を待ち望んでいたのです。イエス様は、このバルテマイの期待を知っていました。そしてエリコで出会われたのです。

 

イエス様は言われました。「彼を呼んできなさい。」

 

彼は、日頃人々からは厄介者扱いされ、のけ者にされていました。しかしこの時、「やったー、イエス様が自分を呼んでいる」 どれほどうれしかったでしょうか。

 

彼は全財産といってもいい上着を脱ぎ棄てました。そこに彼の信仰を見ることができますね。こんなものはもう要らない。イエス様が自分をいやしてくださる、そう信じたのです。見えるようになれば、物乞いなんて必要ない、そう信じたのです。ですから、薄汚い上着は捨ててしまいました。

 

イエス様は、彼に尋ねました。「あなたはわたしに憐みを求めているが、わたしに何をしてほしいのか」 イエス様は人々の信仰深さを知りたいと願われます。そしてその信仰を見たときに大変喜ばれるのです。

 

彼は言いました。「先生。見えるようになることです。」 ここで先生という言葉は、言語ではラボニというアラム語が用いられています。先生を超えて、「私の主よ」という強い意味が含まれます。イエス様を救い主、メシヤと受け止めているからそのように呼んだのだと思います。

 

そしてバルテマイは、自分の願い、自分が何を信じているかを告白しました。「見えるようにしてください」と。

 

私たちも、自分の願いが何なのか、ぼやけないようにしましょう。イエス様に対する自分の願いがいつもはっきりとするようにしましょう。その祈りが聞かれた時、誰が答えてくださったのかわかるためです。

 

バルテマイは、目の見えない盲人でしたが、私たちはどうでしょうか。もちろん私たちは、この肉体の目は見える者ですね。でも神様から見たら、霊的に死んでいる者になっています。霊的に見えない者になっています。これが生まれつきの私たちの状態です。

 

その霊の目を開くために、霊の耳を開くためにイエス様は来てくださいました。霊の目が開き、霊の耳が開かれるとどうなるのでしょうか。

 

自分の罪深さがわかります。神様に背を向けて間違った方向に進んでいたことがわかるのです。そしてもっと神様のことを知りたいと願うようになるのです。そしてイエス様と出会い、私たちは生まれ変わります。新しく生まれ変わるのです。イエス様からあたらしい命をいただきます。そして私たちは、神様と交わる者とされるのです。なんと感謝なことではないでしょうか。

 

そしてイエス様は私たちの声に耳を傾けてくださっています。

 

わたしがイエス様のことをまだ信じていなかった時、未信者だったころ、神様に祈ったことがあります。もし、天地創造の神様が本当にいらっしゃるなら、どうかわかるように教えてくださいと。

 

やがてしばらくして、聖書を読み、教会に導かれるようになりました。神様のことがわかるようになり信じることができたのです。これは神様が祈りを聞いてくださったからだと思います。本当に感謝です。神様は100信じていない人の祈りにも答えてくださるからです。

 

そして神様はもちろん信じる者たちの祈りを聞いてくださいます。そしてその叫びにすぐに答えてくださるのです。もしわたしたちが、叫ばなければいけない、そのような状況になったとき、遠慮なくバルテマイのように叫んでいこうではありませんか。神様は本当にあわれみ深いお方です。あなたはそのままほったらかすお方ではないのです。

 

私たち試練に会う時、それはわたしたちを強くするため、あるいはもっと神様の近くに近づくためであるのです。私たちを苦しめるためではありません。

 

神様は、真実なお方です。ですから、頼る者を悪いようには決してしないのです。このことをしっかりと信じていきましょう。

 

エレミヤ書333節をお読みいたします。

 33:3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』

 

神様は、私たちに対して「わたしを呼べ」と言ってくださっています。「かしましいから黙っとけ」とはいいません。「めんどくさいから静かにしておけ」とも言いません。神様は私たちの声に耳を傾けてくださいます。その叫びを知っておられます。そしてすぐに答えてくださいます。それが神様の約束です。このことを受け止めていきましょう。

 

 

 

 

 

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