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キリストの旗印

テキスト Ⅱ歴代18:1-9
18:3 イスラエルの王アハブはユダの王ヨシャファテに言った。「私とともにラモテ・ギルアデに行ってくれませんか。」彼は答えた。「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。ともに戦いに臨みましょう。」
8:4 ヨシャファテはイスラエルの王に言った。「まず、主のことばを伺ってください。」
18:8 イスラエルの王は一人の宦官を呼び、「急いでイムラの子ミカヤを連れて来い」と命じた。
18:9 イスラエルの王とユダの王ヨシャファテは、それぞれ王服をまとって王の座に着いて、サマリアの門の入り口にある打ち場で座っていた。預言者はみな、彼らの前で預言していた。




聖書の中で、神様がヨシャファテとともにおられたとしるされているくらい、ヨシャファテ王は神様に愛された王様であり、神様を愛する王様でした。

しかし、ヨシャファテにも弱い部分があったのです。それはヨシャファテの人の好さとその社交性でした。そしてそれは、彼の平和主義に現れます。北と南に分かれたイスラエルとユダの民族を元のように統一したいと願ったのです。

彼の父はアサ王といいますが、父の時代、イスラエルとしょっちゅう争いがあったと記されています。時には、アラムという外国にお願いして北のイスラエルを攻めさせたほどです。その子であるヨシャファテは、父親が同じ兄弟である北のイスラエルと南のユダがなぜ争いばかりしているのだろうかと不思議に思ったと思います。それで彼は平和的に生きるべきだ、友好関係を築こうとして
北のアハブに近づいて行くのです。

「兄弟よ。我々の時代は仲良くしようではないか。」一見、平和主義は人々からも受け入れられるし、良いことをしているように見えます。しかし、仲良くする相手が良くなかったのです。その良くない相手と姻戚関係となりました。自分の長男の嫁をこのアハブ家から迎えたのです。そのことは最悪中の最悪でした。なぜでしょうか。

北のアハブという人物はどんな人物だったのでしょうか。
Ⅰ列王15:30-33をお読みします。
16:30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。
16:31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
16:32 さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。
16:33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。

聖書に記されているアハブ王様は、誰よりも神様の目に悪を行い、神様の怒りを引き起こしたとあります。ヨシャファテはそんな人の中に飛び込み、姻戚関係を結んだのです。ただ平和を愛していたからです。

しかし、これは、ヨシャファテの弱い部分でした。神様が喜ばれないところに行って、彼らを契約を結ぶことは、神様のお心ではなかったです。もっとよく神様の声を聞くべきでした。

私たちの生活の中でも、親しい友となるべき人を選ぶとき、だれでもいいわけではないのです。選ぶ相手によって人生が左右されるからです。そして飛び込んでいく場所も気を付ける必要があります。危険な場所で、危険な人々と親友になるなら、自分を危険に追い込むことにもなります。

イエス様にとって親友となった人々は、12弟子をはじめとした弟子たちでした。イエス様は自らこの12弟子を選びました。この弟子たちを愛されました。そして多くの教えを与えてくださったのです。しかし、福音を知らせるために、人々を暗闇の世界から救い出すために、あえて罪人のところにも行きました。

それは、彼らの仲間になって彼らと同じ行動をするためではありませんでした。彼らの心の叫びを知り、彼らの心の飢え渇きに応えるためでした。その必要を満たすためだったのです。罪の中で苦しみもがいている彼らを救い出すために、彼らの中に入って行ったです。救われた人々は、イエス様の弟子となっていきました。

取税人ザアカイもそうでした。人々から憎まれていました。罪人扱いされていたのです。でもザアカイはイエス様によって変えられたのです。イエス様は次のように言いました。ルカ5:32をお読みします。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

罪人と言われているような人々と接してはいけないというのではなく、彼らを悔い改めに導くようにしなさいと言うことです。彼らを導くためには彼に近づく必要があります。彼らの真似をして同じように罪人になることではないのです。

ですから、私たちは親友と呼ばれるほどの友を選ぶときには注意が必要です。その友が信仰の友であれば最高です。間違いはないでしょう。信仰の友が与えられるように祈りましょう。

ヨシャファテは親しくなっていたアハブ王様から、一緒に戦いに行ってくれませんかと言われました。「いいですよ。私たちは兄弟ではありませんか。」と安請け合いするわけです。

でも、戦争となると、命の危険も伴います。ヨシャファテは神様に頼ろうとしました。「まず、主に伺ってみましょう。」というわけです。日本語の漢字で表現すると主となっていますが、聖書をよく見ると、太字の主になっていますね。これは、ヤーウェなる神様に伺ってみましょうということです。

これは、聖書が主と太字で書かれている部分は、ヤーウェなる神様という意味です。これを訳するときに、どのように発音したらいいのか、わからないところから来ています。ヘブル語はすべて子音で表現されています。母音の表記がないのです。ですからどのように発音するのかは、言い伝えをよく覚えて引き継いできたわけです。

神様は、律法の中で、御名をみだりに唱えてはいけない、と言われました。イスラエルの人たちは、それを忠実に守ろうとしたのです。ヤーウェという神様の名前をあまり口にしなかったのです。すると、正確に発音できる人が少なくなっていったのです。

イスラエル人は不信仰のために、アッシリア帝国やバビロン帝国に連れ去られてしまうという出来事が起きます。そのあと、神様の御名の呼び方が、ヤーウェなのか、エホバなのか、よくわからなくなってしまいました。多くの学者によると、「ヤーウェ」と発音するだろうと言われています。ですが、今のほとんどの聖書では、主と太字で表現されています。英語も一緒です。

ここで、ヨシャファテははっきりと意識して使っているわけです。これまで私たちをエジプトから導いてこのカナンの地に入れてくださった全能の天地創造の神様、ヤーウェの神様に伺ってみましょうということです。ただの主人の主ではないのです。特別な意味がありますね。

ところが、アハブ王が連れて来た預言者たちはどうだったでしょうか。アハブ王は自分が日ごろから付き合っている預言者、宮廷付きのお抱えの預言者でした。つまりバアルの預言者たちがほとんどだったと思われます。これでは正しくヤーウェのお言葉を聞くことはできません。名ばかりの預言者、偽預言者と言ってもいいでしょう。王様にすぐに忖度して預言する人々であり、口合わせをする預言者でした。なんと400人の預言者が呼ばれたのです。

ヨシャファテは彼らを見てすぐにわかりました。聖書を見ると、この預言者たちの預言には、「ヤーウェの神が」とは言っていません。ただの「神が」といっています。ヤーウェの神からのお言葉ではなかったのです。バアル預言者たちの格好、そのバアルを呼び求めるスタイルを見ても、これは違うと思いました。そしてすぐに言います。ここには、ヤーウェなる神様のお言葉を伺うことのできる預言者はいないのですか。

実はイスラエルの中にも、わずかながらヤーウェの預言者がいたのですが、バアル預言者によって追いやられていたのです。そしていつもきびしい内容の預言をしていました。これではこの国は滅びてしまうよ、と警告の預言ばかりでした。それでアハブ王からも嫌われていたのです。

でもヨシャファテがしつこく求めたのでミカヤというヤーウェの預言者が呼ばれました。ミカヤはヤーウェなる神様のお言葉を正確に伝えました。アハブがこの戦いで戦死するということをありのままに伝えたのです。

このアハブ王は戦略家でした。ヤーウェの神を信じてはいませんでしたが、エリヤの奇跡を体験していましたのでヤーウェの神の言葉を一応警戒しようと考えたのです。

「ヨシャファテ王よ。あなたは王なのだから王らしく堂々と戦いに出てくれ。私は一応預言者の言葉を受け止めて変装して出ていこう」敵の攻撃を警戒したのです。

敵がいちばん命を狙うのは自分であるということをよく知っていたのです。ヨシャファテを王として立てれば、狙われるのは彼であって自分ではない、と考えました。

果たして戦いに出てみると、真っ先に戦いでねらいをつけられたのが王様の格好をしているヨシャファテでした。「あいつがイスラエルの王に違いない。あいつの首を獲れ。」すぐに周りを敵に囲まれてしまいました。

するとヨシャファテは大ピンチに立ちました。「助けてくれ。助けてくれ。」助けを呼び求めました。その声を誰が聞いたでしょうか。憐み深い神様がちゃんと聞いていました。神様がヨシャファテを助けてくださったのです。敵もこれはイスラエルのアハブ王ではないと気がついたのです。ヨシャファテは命からがら生き延びることができたのです。

なんと神様は憐み深いお方ではないでしょうか。私たちの呼び求める声をもちゃんと聞いてくださっています。神様は真実なお方です。ですから私たちも、万が一のピンチにあった時は、「主よー。助けてください」と神様を呼び求めましょう。神様から助けがやってくるのです。

一方、アハブ王はどうなったのでしょうか。Ⅱ歴代18:33によると、敵の兵士が何気なく弓を放ったところ、アハブのよろいの隙間を射抜いたと記されています。これで致命傷を負ったとあります。戦場で死んでしまいました。ミカヤという預言者の預言どおりになったのです。

ヨシャパテが命を落としそうになったその原因は何だったのでしょうか。ヨシャパテは神様から愛された人でした。そのユダの王様がなぜ命を落としそうになったのでしょうか。それは、神様が選ばれないことを選んだことが原因でした。

アハブと友人関係になり、姻戚関係になりました。自分の息子の嫁をアハブの娘から迎えたのです。なぜそのことが神様に喜ばれなかったのでしょうか。それはアハブという人物を見るとよくわかります。彼の奥さんは誰でしょうか。イゼベルという人でした。シドンというイスラエルの北にある外国の王様の娘でした。この女性が、そこからバアルとアシェラという偶像をイスラエルに持ち込んだのです。しかも熱心に行いました。神様に仕える預言者を大勢捕えて殺した女性です。それがアハブの妻でした。

預言者エリヤも苦しめた人でした。聖書の中でも悪女として名高いこの女性から生まれ出て来た娘を息子の嫁として迎えたのです。その後は代替想像できますね。

ヨシャファテが命を落としそうになった第一原因は、アハブと親しくなったことです。ヨシャファテは交友関係を優先するあまり、自分の信仰を二の次にしてしまいました。

マタイ5:14-16をお読みします。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

イエス様は私たちは世の光だと言われました。世の光です。すごいことですね。世界に向かって光り輝く者です。なぜ私たちが世の光なのでしょうか。

それは、私たちの内側に光であるお方がいらっしゃるということです。その光をどうしなさいと言っていますか。升の下に隠して置かないでと言っています。升とは何に使うものですか。穀物を図る道具ですね。その中にたくさんの穀物が入るように上だけが開いていて、四角い箱のようなものです。升の下に置くとは、それをひっくり返して明かりを伏せておくということでしょう。外から全然見えません。周りは暗いままですね。

イエス様を私たちの内側に閉じ込めておかずに外から見えるようにしなさいと主は教えておられます。そうすれば、ああここにイエス様がいらっしゃるとわかるようになると言うのです。

これは私たちの旗印を明確にするということでもあります。そしてこれは所属を明確にするということでもあります。

昔の戦いを思い出してみましょう。関ケ原の戦いというのがありました。天下分け目の決戦とも言われます。歴史的な一大事件でした。東の徳川軍と西の反徳川軍のとで分かれて決戦を行いました。それぞれ各領地をもつ国々が参加しました。それぞれ、各戦国武将には旗印があります。それぞれが掲げるわかりやすい印が描かれています。その旗を見るとすぐにどこに所属している武将かがわかります。相手が敵なのか、味方なのかすぐに判別することができるのです。もしこの旗印がないと、同士討ちが起こってしまって統率が取れなくなってしまいます。これでは戦いに勝利することはできません。ですから旗印はものすごく重要なのです。

私たちの旗印は、イエス様です。あなたは何者ですかと人から言われたら、「はいクリスチャンです、イエス様を信じる者です。」と言えるようにしようではありませんか。

みなさん。これは勝利の秘訣です。なぜならイエス様はすでに勝利を受けれたお方だからです。死に打ち勝たれました。死からよみがえられたからです。復活されたのです。これは勝利の証です。神様が死を滅ぼされるお方だということがわかります。私たちも復活するという希望を与えられています。これは希望であり、約束です。そしてイエス様が初穂となってよみがえってくださいました。

みなさん。勝利の主が私たちの旗印です。これを掲げる時に私たちも勝利するのです。私たちはイエス様のものだからです。神の所有の民です。私たちの国籍はどこですか。天にあるのです。

ですから、私たちは、明確にこのことを大胆に宣言していきましょう。「あなたは何者ですか。」「はい。クリスチャンです。」と。

今日はヨシャパテという神様から愛された王様について見てきました。信仰深い人物でしたが弱さもあったのです。平和を愛するあまり、神様が嫌いな人物に近づいて行ったのです。

どんなに罪人でも神様がきらいにならない人物もいます。それは自分の罪を認めて神に近づこうとする人です。神様はその人に手を指し伸ばしたいと願っておられます。

イエス様が十字架にかかられるとき、右と左に極悪人が一緒に十字架につけれらました。右の極悪人はイエス様の姿を見て、自分の罪深さに気づいたのです。罪のないお方がなぜ十字架にかかっておられるのかわかりました。そして罪人たちのために祈っているその祈りを聞いたのです。「どうぞ彼らの罪を赦してあげてください。」

この極悪人は、そこに一縷の望みを見つけました。「ああもしかしたらわたしも赦されるかもしれない。」「イエス様。天の御座に着かれるときには私を思い出してください」極悪人は2人いましたが、この自分の罪深さに気づいた極悪人だけがイエス様の憐みを受けたのです。「あなたはわたしと一緒にパラダイスに行きます」と言われたのです。

ハレルヤです。このお方に望みを置く人は恵みを受けます。ですから私たちはイエスキリストという旗印を大きく掲げていきましょう。この方はすでに勝利を取られたお方、よみがえったお方だからです。