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十字架の意味

テキスト
マタイ5:17-18
5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去る
ことはありません。すべてが実現します。


今日は、イエス様の十字架に焦点をあてたいと思います。イエス様の生涯の終わりはどんな終わりだったのでしょうか。イエス様は何のためにこの地上に来られたのでしょうか。

イエス様は天において、父なる神様とともにおられて御子として存在しておられました。それなのになぜこの地上に来られたのでしょうか。イエス様ご自身のお言葉を見るとわかります。

先ほどお読みしたマタイ5:17には律法と預言者の言葉を成就するために来たと言っています。成就するためとは何でしょうか。キリストについての数々の預言と型が聖書に記されてきました。イエス様はこのようにして地上に来られる、地上でこのことをなされる、このように死なれるという数々の預言があります。そして数々のキリストの型が示されました。

イエス様は、あらかじめ示されたこれらひとつひとつをすべて実現するために来たとおっしゃったのです。すべてです。残らずです。その代表的なことを見てみましょう。

ヘブ11:17-19をお読みします。
11:17 信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
11:18 神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、
11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。

この出来事は、創世記22章に詳しく記されています。今日は、開きませんが、概要を見てみましょう。アブラハムとさらに子供が与えられたのはアブラハムが100歳の時でした。100歳になって与えられるとは、本当に神の奇跡です。待ち望んでいた子供がやっと与えられたひとり子でした。大切な跡取りでした。大事に大事に育てたのです。やがて大きくなりました。少年から青年になっていたと思われます。

そんなときにアブラハムに大きな試練が訪れます。神様がイサクをいけにえとして捧げることを求められたからです。アブラハムは、大変ショックを受けました。「主よ。あなたが与えてくださったこの大事なひとり子をわたしから奪われるのですか。人間を捧げるなんて正義の神であるあなたがそれを求めるはずがありません。」

アブラハムは、神様に叫びました。でも神様から来る答えは一緒でした。「イサクを捧げなさい」でした。アブラハムは全く意味が分かりませでした。でも「今まで従って来た神様に間違いはない、きっと何か特別な理由があるはずだ、その言いつけに従っていこう。」

アブラハムは、イサクを捧げる決心をすると、次の日朝早く示された地、モリヤという場所に出発しました。当時住んでいた所ベエルシェバからモリヤまで約80kmほどあり、歩いて3日かかりました。

アブラハムの時代、このモリヤという場所は特別重要なところではありませんでした。ではなぜ、神様はこの地でイサクを捧げさせようとしたのでしょうか。住んでいたベエル・シェバでなく、なぜモリヤの地だったのでしょうか。後々、ここは、ダビデが祭壇を築く場所になったのです。そしてその場所にその子供であるソロモンが神殿を建設しました。神様が礼拝される場所、神殿が築かれたのです。聖なる場所となりました。イスラエルの首都であります。ダビデが王となる約1000年も前に、神様はその場所を選んで、その特別な場所でイサクを捧げさせたのです。

そして、約2000年後、その場所で、御子キリストはこのエルサレムで十字架にかかったのです。イエス様は、預言者がエルサレム以外で死ぬことはありませんと言いました。多くの預言者が迫害されて殺されてきた場所でもありました。イエス様はこのエルサレムで十字架にかかって死ぬことを最初からご存知でした。

アブラハムが行けと命じられた場所は、実はイエス様が十字架で死なれた場所だったのです。このことは何を表しているでしょうか。アブラハムのひとり子をいけにえにすること、これは御子キリストをいけにえにするということの予表でした。ひとり子をいけにえとして捧げるということにおいてピッタリと一致しているのです。預言的にアブラハムの人生の中に組み込まれたのです。

不可能という状態から与えられた息子イサクでした。アブラハムは信じたのです。「たとえ、いけにえとして捧げても、神様は死から生き返らせてくださるに違いない」そのように信じました。すごい信仰ですね。ここまで神様に信頼できたらすごいですね。
アブラハムがナイフを振り上げてイサクの喉元をねらって突き刺そうとしたその瞬間、神様はアブラハムに声をかけたのです。「わたしはあなたのその信仰を見た。その子を殺してはならない」

アブラハムは、イサクを殺す代わりに、近くにいた雄羊を捕まえました。イサクを死から取り戻したのです。これはキリストの復活を予表しています。

このように、イエス様の生涯も、そして十字架も、復活もすべて聖書にあらかじめ示されてきました。神様がわたしたち一人一人を愛してくださり、あらかじめご計画してくださったということです。聖書にはイスラエルの歴史が数多く記載されていますが、その中にはキリストに関する預言が埋め込まれています。このアブラハムの出来事はそれを良く表しています。

それではイエス様はなぜ十字架にかかる必要があったのでしょうか。出エジプト記12:5-7をお読みいたします。
12:5 あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12:6 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。

この記事は、モーセが民を率いてエジプトを脱出するときのクライマックスの出来事です。10のわざわいの中の最後のわざわいです。家族の中から長男として生まれた人を殺すというわざわいでした。

エジプト中の家族という家族にこのことが起こりました。全家族の中に死人が出たのです。エジプト中で大きな泣き叫びが起こりました。しかし神様はイスラエル人の中にこの死人が出ないように守られたのです。どのように守られたのでしょうか。一つのしるしを付けるように命じれました。それが小羊の血です。子羊を殺して家の門柱と鴨居にその血を塗ったのです。

神様がわざわいを下すと言われて、御使いがやって来た時に、その血を見るようにと言われたのです。そしてその血の塗られた家にはその御使いは近づきませんでした。その血が人々を守ったのです。滅ぼされることから守られたのです。

イエス様がこの地上に登場したとき、バプテスマのヨハネがイエス様のことを人々に紹介しました。ヨハネ1:29をお読みします。
1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。

ヨハネがイエス様を神の小羊と呼びました。なぜイエス様が世の罪を取り除く小羊なのでしょうか。このとき、ヨハネは知っていました。イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死なれることを知っていたのです。だから世の罪を取り除く神の子羊と呼んだのです。イエス様は最初から神へのいけにえだったのです。

やがてイスラエルの人々は、モーセを通して神様から律法をいただきます。もし罪を犯したら、その罪を赦していただくために羊をいけにえとして捧げ、血を流さなければならないとあります。

同じように、キリストも私たちのためにいけにえとなってくださいました。それが十字架です。

イザヤ53:10をお読みします。
53:10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。


キリストが十字架にかかることは、神様の最初からのご計画でした。ですから十字架の死はキリストの失敗ではないのです。父なる神様に忠実に従った結果なのです。そしてその従った結果は、死で終わりませんでした。

神様はキリストを3日目によみがえらされました。復活させられたのです。ハレルヤですね。

神様は、死に勝利されるお方だということです。これは大きな希望です。神様は死をも支配しておられます。ですから、私たちは平安をもって最期を迎えることができます。何一つ恐れることはありません。何も心配することがありません。

イエス様は初穂としてよみがえりました。初穂ということは、この後私たちも続くことができるということです。次のお言葉をもう一度確認しましょう。ヨハネ11:25です。
11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

イエス様を信じる者は、死んでも生きることができるのです。ハレルヤ。何と感謝なことではないでしょうか。

Ⅰコリント15-20をお読みします。
15:16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

パウロは言いました。キリストを信じても、もし死後によみがえらなかったとしたら、その人たちは一番あわれなものだと。多くのクリスチャンが激しい迫害の中で殺されていきました。ライオンとかの猛獣と戦わせられたこともあったのです。もし、イエス様を信じているということで迫害されて殺されて、それですべてが終わるなら、そんなあわれなことはないのです。でもその後があるのです。よみがえることができます。だからこの大切な信仰を捨てないのです。

私たちには望みがあります。やがて天に入りイエス様の近くでイエス様と共に住むことができるということです。これはよみがえりのいのちを持つということです。

この望みがあるから、この世の生活はほどほどでいいのです。私たちの宝は天にあるからです。

今日はイエス様がなぜこの地上に来られたのか、なぜ十字架で死なれたのかを見てきました。イエス様の十字架の死ははじめから神様のご計画でした。なりゆきでそうなったのではありません。失敗ではありません。偶然でもありません。神様の偉大なご計画でした。そしてイエス様の十字架は死で終わりませんでした。その死に対して勝利されたのです。ここに希望があります。

イエス様を信じたころ、この復活の尊さがあまりよくわかりませんでした。でも復活は私たちの希望であることがよくわかります。わたしたちもよみがえることができるという望み、信仰があるからです。弟子たちの信仰もイエス様のよみがえりを通してまったく変化してしまいました。復活の望み、それは、私たちが天に望みを置くことです。その信仰をしっかり持っていきましょう。