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信仰によって歩む

マタイ14:22-32
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」

私たちの毎日の歩みの中にも、向い風がときどき起こります。逆風です。いつも順風満帆ではないのです。周りのみんながみんな、自分の意見に賛成するわけではないのです。自分の中では、これは良い、このアイデアは良いと思っても、全体の中ではそうでもなかったりします。ときどき、反対意見も起こります。物事がうまく進まない、そう感じます。向かい風です。

進んでいきたい方向、場所、目的地はあるけれど、多くの妨げがあるわけです。

弟子たちはこの向かい風に直面しました。どんなに向かい風でも目的地がある以上、なんとかしないといけません。ただぼっとしていたら、どんどん違うところに流されてしまうのです。一所懸命帆を操り、櫂を何度も何度も漕いだと思います。それでもどうしようもありませんでした。沈まないだけまだましでした。

向かい風で波に悩まされたということは、強い向かい風だったということです。その強い風のために波が高くなったのです。波が高くなると、舟での移動は大変危険です。舟が波の力で転覆する危険があるからです。
いのちの危険にさらされます。

このときは、そこまでの嵐ではなかったようです。でも波が高くなっていたのです。

私たちの人生の歩みの中でもいろんな波がやって来ます。ケガするときもあります。病気で寝込むときもあります。そんな時は、動けないです。じっと過ぎ去るのを待ちます。回復するのを待つわけです。

弟子たちのこの舟旅もそうでした。にっちもさっちも思うようにいかない状況があったのです。

それだけではなく弟子たちは、恐れがありました。舟旅の心配はもちろん、霊的なものに対する恐れも多く持っていました。霊的なものに対する正しい理解も不足していました。ここで幽霊を恐れたとあります。

幽霊らしきものを見てどんな反応をとったのでしょうか。「ぎゃっー」と大きな声で叫んだのです。この時の弟子たちは、男性ばかりだったので「きゃぁー」ではなかったと思います。まさしく悲鳴をあげて腰を抜かしたのです。

でも、幽霊らしきものは実は、幽霊ではなく、湖の上を歩くイエス様でした。イエス様は、私たちを恐れさせるお方ではありません。イエス様の口癖は、「平安があるように」です。私たちがいつも平安の中にいることを願っておられます。このとき、弟子たちを落ち着かせました。
「わたしだ、怖がらなくてもよい。」

人はなぜ幽霊を怖がるのでしょうか。それは、その正体がなんであるのかわからないところから来ると思います。自分の力を超えた存在が自分に危害を加えるのではないかと恐れます。

人はたくさんの体験談を見聞きするわけです。昔から怪談話があり、ホラー映画などもあるわけです。人がホラーやオカルトに関わったり、その影響力の強い場所に行ったりするとその影響を大きく受けるようになります。そしてこれらの霊に苦しめられるわけです。その霊に苦しめられた結果がその体験談なのです。

人間に危害を加えようとする存在、それは悪霊の仕業です。もちろん霊的存在を甘く見てはいけません。しかし、イエス様はこれらの悪霊にすでに勝利を受けておられます。イエス様は王の王、主の主、神の御子キリストです。彼らはキリストの前に何の力もありません。イエス様を信じる私たちもその勝利に日々預かることができます。感謝ではないでしょうか。

コロサイ人2:15をお読みします。
2:15 そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。

イエス様が十字架にかかられて御業を成された時にこのことが起こりました。私たちを裁いて罪人として滅ぼそうとするすべての勢力を捕えてくださいました。

でもこの恵みは、信じる者に与えられているということです。私たちがイエス様を信じたその時、すべての罪がゆるされて、敵が私たちを牛耳ろうとする力が砕かれるのです。

すべての罪のうち、私たちの最大の罪は何でしょうか。「ちょっとした小さな罪はたくさんあるけど、最大の罪なんてわたしにはないですよ。」というでしょうか。いいえ。だれでもこの最大の罪を犯します。それは、神に逆らって生きるという罪です。神様に背いて自分の好きなように生きようとする心です。

人は、自分の生きたいようにすることが大好きです。だれも人に支配されたくないのです。自分の好きなことを第一にしたいのです。神様の定めたことに従いたくないのです。その心こそ、神への反逆であり、神にそむく心です。これが人がだれでも持っている最大の罪です。神なしに生きていきたい。自分の思うとおりに生きていきたい。

人の判断ではなく、自分の判断で生きていきたい。自分が、自分が。これが人が生まれながらに持っている生き方です。私たち人間は、これをアダムとエバから受け継いでいます。ですから、私たちはすべてだれでもこの最大の罪を犯しています。

しかし、感謝なことに御子キリストはこの地上に来られて私たちのこの最大の罪をはじめ様々な罪のために十字架にかかって下さいました。ハレルヤ。私たちの罪が取り除かれたのです。信じる者はこの罪の赦しを受け取ることができます。

それでも私たちは、毎日罪を犯します。その罪はどうしたらいいのでしょうか。イエス様はその罪の為にも十字架にかかられました。

ですから、私たちは、一度十字架の前で罪を悔い改めてイエス様を信じる決心しただけでなく、毎日、イエス様の十字架を仰いで、毎日の罪を清めていただく必要があります。「どうぞ、これこれの罪を赦してください。清めてください」と祈る必要があります。聖書の約束のとおり、主は清めてくださいます。

コロサイ人2:15にあるように、イエス様は十字架の上で、私たちに敵対していた霊的勢力である「様々な支配と権威の武装」を治めてくださいました。勝利してくださったのです。捕虜にしてくださいました。ですから、イエス様を信じる者は何も恐れる必要はありません。

多くの弟子たちが、ぎゃーと声をあげて怖がっている中、最初に前向きな信仰を持った人はペテロでした。
ペテロはこれまでもたくさんの奇跡を目の当たりにしてきました。まず、最初に弟子として招かれた時、たくさんの魚がとれるという奇跡を体験しました。網が破れそうになったのです。

カナの結婚式に招かれました。そこでは水がぶどう酒に変えられるという奇跡を見ました。多くの招かれた客人がその最高の味のぶどう酒を飲んだのです。

舟に乗っていて嵐が襲ってきたとき、舟が沈みそうになりました。でもイエス様は平然と舟の端のほうで寝ていました。全くの平安の中にあったのです。そしてイエス様を必死で起こすと「黙れ静まれ」と一声で嵐を静めました。

毎日のようにたくさんの群衆と一緒でした。そしてその中にはたくさんの病人がいたのです。イエス様はその一人一人に手を置いて癒しを行われました。そのすさまじい奇跡を見てきたのです。盲人がいやされました。口のきけない人がいやされました。38年間病気で苦しんでいた人を癒やしました。12年間出血のとまらない婦人病の女性をいやされました。重い皮膚病の人を癒やしました。悪霊につかれた人を癒やしました。

会堂管理者の娘を死から生き返らせました。

このようにイエス様の奇跡を毎日のように見てきたのです。舟に乗り込む直前にはパンと魚の奇跡を見ました。

弟子たちの中でも、ペテロは特別でした。いつもイエス様のすぐ近くにいて間近でイエス様を体験していたのです。このとき、真っ先に信仰が立ち上がります。「なんということだ。イエス様が湖の上を歩いている。」

長年漁師をやっていてたくさんの嵐に遭遇し、湖の波に悩まされてきました。その湖の上を平気で歩いているというイエス様のこの奇跡に感動したのです。自分もこの奇跡を体験したいと思いました。

すかさずイエス様に叫びました。「「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」」

イエス様は、「あなたは罪深い人間だからダメだ」とは言いませんでした。イエス様の答えは「来なさい」でした。ハレルヤ。主は、私たちの興味関心を大切にされるのです。イエス様が私たちが興味を持っていることや関心を持っていることを取り上げてしまうお方ではなく、これを祝福して用いてくださるお方です。

あなたがもし、何かに特別に強い興味関心を持っているとしたら、これは簡単にあきらめないようにしましょう。神様があなたの心に働いてその情熱と思いを与えてくださっているからです。

これが罪の誘惑でないかぎり、これを神様に捧げてゆだねて祈っていきましょう。求めていきましょう。主が導いてくださいます。

このとき、イエス様の答えは、「来なさい」でした。なんと大きな励ましを受けるのではないでしょうか。主は私たちの自主性を大切にされることがわかります。主は、私たちの思いや情熱を大切にされることがわかります。感謝です。
主はわたしたちの持っている物を取り上げるお方ではないのです。祝福されるお方です。

ペテロはイエス様に呼ばれてどうしたでしょうか。歩いたのです。舟から離れたイエス様のところに歩き出したのです。なんと不思議なことにアメンボのように水の上を歩くという奇跡を体験しました。

ところが、ペテロの水の上の体験は長く続きませんでした。ペテロは、イエス様ではなくほかのところを見てしまいました。それは湖の姿です。波がざぶんざぶんと高くなっていました。湖はペテロの長年の生活の場、仕事場でした。たくさん苦しみを経験した現場でした。その恐ろしさは誰よりもよく知っています。だから、その経験をすぐに思い出したのです。

すると、自分が湖の上を歩くという信仰がとたんに無くなってしまいました。するとすぐにズブズブと沈み始めました。彼はすぐに叫びました。「主よ-。助けて」イエス様は手をさし伸ばして助けたとあります。イエス様はこのような状況
になった時に私たちを見捨てるお方ではありません。ペテロだけでなく、私たちが呼んだときも同じように助けてくださるのです。

ペテロは、湖で沈みかけて溺れそうになりましたが、それはイエス様から湖の波に目を向けたことが原因でした。私たちは溺れないように、つまづかないようにするために、信仰の土台をどこに置けばいいのでしょうか。

それは、イエス様のお言葉です。ヨハネ14:6をお読みします。
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

イエス様は、わたしが道、真理、いのちだと言われました。わたしがあなたを天の父のところに導くと言われました。なんと力あるお言葉ではないでしょうか。

イエス様の語られたお言葉ひとつひとつを大切にしましょう。大切するということは、そのお言葉を覚えて暗唱し、なんどもなんども口にして味わうことです。そして自分の生活に適用していくことです。これが大切にするということです。

そして私たちの信仰の土台は聖書全体のお言葉です。
テモテⅡ3:16をお読みします。
3:16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

聖書全体が神の霊感によって記されているとあります。人間の思いつきで書かれたものではありません。神様が書かせた書物なのです。これを霊感と言います。神様が命じて書かせたものなのです。そしてこの聖書は私たちを教えてくれる、戒めてくれる、矯正してくれる、正しい道へ訓練してくれるとあります。
私たちはうれしい、たのしい、感動したという感情によって信仰生活を歩むのではありません。きちんとした約束に基づいて歩むのです。これは神様との約束です。契約です。イエス様を信じるならこれこれの恵みにあずかることができます、という約束です。

イエス様も、聖書も私たちに数々の約束を記しています。その一つ一つに信頼して歩むこと、これが信仰です。

  

 

 

 

 

 

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