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ひとりで祈る祈り

【テキスト】マタイ1412-23

 

マタイ14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。

 

今日のテキストには、バプテスマのヨハネ殺害された後のことが記されています。

  

イエス様とヨハネは血縁関係にあります。親戚です。年齢はバプテスマのヨハネの方が6か月お兄さんになります。バプテスマのヨハネとイエス様の誕生については、ルカの福音書を読むと詳しく記されています。

 

バプテスマのヨハネ何をした人でしょうか。バプテスマと修飾する言葉がくっついているのでわかりやすいですね。そうです。人々に洗礼を授けていました。彼は幼い時から荒野で生活していたと言われています。クムランのエッセネ派で聖書の写本をするグループの一員だったと言われています。でもあるとき、神の声を聞いて、彼は荒野から出てきてヨルダン川で人々に呼びかけて叫んでいたのです。

 

神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。ということを人々に知らせたのです。「御子キリストがこの世に来てくださった。だから、神の国が到来している。その恵みにあずかるために悔い改めよ」と呼びかけたのです。

 

このことばに心動かされた人々は実際に罪を悔い改めたのです。大勢の人がバプテスマのヨハネのもとにやって来ました。そして洗礼を受けたのです。洗礼というのは悔い改めたことの証です。

 

バプテスマのヨハネがしたことは、どんな意味があったのでしょうか。

 

神の国が到来した。」これは御子キリストの到来を意味しています。彼は道を整えたのです。御子キリストを救い主として受け入れることができるように人々の心を整えました。イエス様の道備えを成し遂げました。イエス様が働きを始める前に、その働きを唯一助けた人なのです。それがバプテスマのヨハネでした。

 

その自分を助けてくれた人が殺害されてしまったことを聞き、イエス様は大変心を痛めたのです。皆さん、心を痛める出来事があった時、どうするでしょうか。その心のショックのために、しばらく何も手につかないのではないでしょうか。

 

ある人は、この心の痛みを誰かと分かち合うために友人と会ったりするでしょう。この痛みを共有できる人を捜すでしょう。

 

イエス様は、この痛みを父なる神様と共有したかったのです。父なる神に訴えて、ともに分かち合いたかったのだと思います。

 

イエス様は、だれにも邪魔されずにひとり、父なる神様と向き合うことを願われたのです。その願いはかなったのでしょうか。14:13をもう一度お読みします。

14:13 それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。

 

 

 

イエス様は、弟子たちとも離れて一人で寂しいところに行かれたのです。でもそこでは、一人になることはできませんでした。大勢の群衆がイエス様を探し求めてやって来たのです。14:14節をお読みします。

 

14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。

 

イエス様は、ご自分の必要を脇に置いてこの群衆をご覧になりました。そして彼らを見て深くあわれまれたのです。その中には、病気に病んでいる人が大勢いたのです。働くこともできずに貧しい生活をしていました。その一人一人を放っておくことをせず、癒してあげました。

 

やがて日が傾いてきました。弟子たちがやって来てこの群衆を解散させましょうといいました。この人里離れた寂しいところでこのまま帰すわけにはいきません。ここで有名な男子5000名の給食という奇跡を行なわれます。でも今日はそこに焦点をあてるのではなく、イエス様の祈りに焦点を合わせたいのです。

 

その後のイエス様の行動を見ていきましょう。

14:22-23をお読みします。

14:22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。

14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。

 

イエス様は、どうしてもひとりっきりになって父なる神様と向き合いたいと思われました。父なる神様と心を分かち合いたかったのです。弟子たちを全員舟に乗せて、先に行かせました。そしてお腹いっぱいになった群衆も解散しました。

 

それから、一人になったイエス様は、山に登られました。ここでは、だれにも邪魔されずにやっと一人になることができました。イエス様が願っておられたことを実行されたのです。

 

しばらく前に祈りの祭壇を築くというテーマでお話をしました。少しその復習をしましょう。私たちの祈りの祭壇を築くためのチェック項目が2つありました。どんなことだったでしょうか。一つ目は場所が確保できているか、2つ目は時間が確保できているかです。

 

イエス様の祈りの様子を見ると、父なる神様と交わりを持つために、どうしても一人になる必要がありました。イエス様は一人になるために場所を確保する工夫をしました。山に登ったのです。ある時は、早起きをしてひとりで荒野に行かれました。

 

私たちはどうでしょうか。ドアのある、自分の部屋がある人はいいでしょう。でも部屋が無い人は工夫が必要です。ベッドにカーテンを付けるとかして祈ることのできる環境を整えましょう。冬だったら、布団や毛布をかぶって祈ることができるかもしれませんが、夏場はなかなか大変です。できれば声を出してもだれにも迷惑をかけない、そんな環境がほしいです。

 

時間は確保できているでしょうか。サラリーマンや朝早くから仕事に出勤する方々は、朝から多くの時間をとれません。でもできるだけ多く神様の前に静まる時間、祈りの時間を取りましょう。そして通勤の車も活用しましょう。車の中で祈ることができます。バスや電車のなかでも祈ることができます。吊革につかまりながら、目を閉じることができます。祈りの時間を確保していきましょう。

 

私たちは聖霊様とどのように交わったらいいのでしょうか。聖霊様と私たちの交わりは一方通行ではありません。聖霊様からの一方的な語り掛けでもなく、私達からの一方的な訴えでもありません。これは交わりです。語り合いであり、話したり聞いたり繰り返しなのです。

 

私たちは、アダムとエバの子孫として罪をこの身に持って生まれてきました。アダムとエバは神の園エデン神様と自由にお交わりすることができました。すごいことですね。もともと人間はそのように造られました。私たちの内にある霊が神とお交わりすることができました。

 

しかし、アダムとエバが神に背いたために、人間に死が入りました。これは霊的に死んでしまったのです。やがて肉体も死を迎えます。神様と自由に話すことができなくなりました。神様が特別に選んだ人だけが神の声を聞くようになったのです。

 

しかし、神様は私たちの関係を回復するためにイエスキリストをこの地上に送ってくださいました。なんと感謝なことではないでしょうか。私たちはイエス様の血を携えて神様に近づくことができる者とされたのです。

 

ヘブル10:19をお読みします。

10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

 

何のために聖所に入るのでしょうか。神様を礼拝し、神様とお交わりするためです。これは、関係が回復されたことを表しています。アダムとエバが自由に神様とお交わりしたように、私たちも神様とお交わりできる者とされました。これは偉大なことだと思います。

 

だから、私たちが神様に話し祈り賛美し、礼拝をささげることができますし、わたしたちも神様からのお声を受け取ることができます。

 

どのようにして神の声をうけとるのでしょうか。聖書のみ言葉を読むときに受け取ることができます。メッセージ聞いて受け取ることができます。私たちが待ち望んで聞くとき、私たちの内側で受け取ることができます。これが交わりです。両方向です。

 

友人どおしの交わりはそのようなものです。両方向です。

 

自分のしゃべりたいことだけを一方的に話して、時間が来たから帰るね、というのは友人とは言えません。お互いの悩みや興味あること、心動かされたことなど、あるいは日常の分かち合いを相互にすることが交わりです。友人同士はそれをするのです。神様も私たちとのそのような関係を求めておられます。

 

ダビデの祈りから神様との交わりについて学んでいきましょう。

詩編143:138をお読みします。

 

143:1 ダビデの賛歌。主よ 私の祈りを聞き 私の願いに耳を傾けてください。 あなたの真実と義によって 私に答えてください。

143:3 敵は私のたましいを追いつめ 私のいのちを地に打ちつけ 死んで久しい者のように 私を闇にとどめます。

143:8 朝にあなたの恵みを聞かせてください。 私はあなたに信頼していますから。 行くべき道を知らせてください。 私のたましいはあなたを仰いでいますから。

 

ダビデは、3つのお願いをしています。1つ目に、神様どうぞ私の祈りを聞いてくださいと求めています。2つ目に、私の願いに耳を傾けてくださいと言っています。3つ目に、答えてくださいと祈っています。とても素直率直に、ストレートに神様に願いをぶつけているのです。

 

わたしたちも祈りをストレートにぶつけることができます。神様、お金が足りません。わたしの経済を助けてください、と率直に祈ることができます。

 

ダビデは度々いのちを狙われました。敵が私を追い詰めるので死にそうになっていますよ、と神様に必死で訴えました。

 

ダビデの祈りは、訴えるだけで満足するものではありませんでした。神様からの答えを求める祈りでした。朝に恵みを聞かせてくださいと求めました。なぜ、そのように祈ることができたのでしょうか。それはこれまでそのような体験を重ねてきたからではないでしょうか。神様を待ち望んだときに、神様が朝に恵みを語ってくださったという体験です。

 

そして行くべき道を教えてください、示してくださいと求めました。ダビデは自分のがかかっていますから、その答えを受けることはものすごく重要でした。そして度々そのような経験をしてきたのです。神様から奇跡的に助けてもらい、危険なところを逃れてきたのです。ですから、この時も神様から具体的な道を示してもらいたいと願ったのです。

 

私たちも具体的に祈ることができます。困っていることについてもできるだけ具体的に祈ることが大切です。漠然とした祈りは、神様が答えてくださったのか、人の知恵や好意によるものか、偶然にそうなったのか判別することが難しいからです。もちろん、神様はそのような漠然とした祈りを全く聞かれないということはないと思いますが、もっと具体的な祈りをすることをもっと喜ばれるものと信じます。

 

どこか体の調子が悪い時は、たとえば左足の骨折をいやしてくださいとか、具体的に祈ることができます。経済的に必要があるときは、3万円必要です、与えてくださいと祈ることができます。仕事上の課題があって、なかなか前に進まないとき、相手の了解を受けることができるように私に知恵とアイデアをお与えてください等と祈ることができます。

 

私たちが具体的に祈れば祈るほど、その祈りが聞かれた時、神様がほめたたえられるようになります。偶然の出来事ではなく、明らかに神様が答えてくださったことがわかるからです。神様に栄光が帰されるようになります。ですから私たちは、恐れずに、具体的な祈りをしていきましょう。神様の御業をもっと体験したいと思いませんか。だとすれば私たちはもっと具体的な祈りを実践していきましょう。

 

詩編91:14-16をお読みします。

91:14 「彼がわたしを愛しているから わたしは彼を助け出す。 彼がわたしの名を知っているから わたしは彼を高く上げる。

 91:15 彼がわたしを呼び求めれば わたしは彼に答える。 わたしは苦しみのときに彼とともにいて 彼を救い 彼に誉れを与える。

91:16 わたしは 彼をとこしえのいのちで満ち足らせ わたしの救いを彼に見せる。」

 

神様は、どんな人に答えをくださるのでしょうか。この聖句から、神様を愛する人、神様を知っていて神様を呼び求める人であることがわかります。私たちは、このすばらしい神様を愛する人であり、知る人です。そして祈り求める人々です。主は私たち一人一人の祈りを聞いてくださいます。なんと感謝なことではないでしょうか。

 

  

 

 

 

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