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聖霊はどのようなお方か

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テキスト:コリント人への手紙第二13:13
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

私たちはイエス様の恵みを毎日求めます。もっとたくさんの恵みを受けたいと願います。経済的にも、健康面でも、人間関係でも、家族関係でも、仕事の祝福でも多くの点で恵みと祝福を受けたいと願っています。

このテキストの祈りは、パウロの祈りです。でもこれが聖書の中に記されているということは、神様の願いでもあります。もしこれが神の御心と反しているなら、神様はこれを聖書から取り除いてしまったはずですね。でもこのパウロの祈りはそのまま記述されているのです。これは間違いなく神様の願いです。私たちはキリストの恵みを豊かに受ける者なのです。

そして神の愛に豊かに受ける者なのです。そして、もっともっと神様の愛を知る者となることができます。

それだけでなく、私たちの中に聖霊の交わりがあるようにとパウロは祈りました。これは聖霊が私たちともっともっと交わりたいと願っておられるということです。このことをパウロは神様から示され、教えを受けて、ここに祈りとして記述しました。神様は私たちが、もっともっと聖霊と交わることを求めておられます。

いつ聖霊様と交わることができるのでしょうか。いつでもです。聖霊様を意識して、いつでも私たちはお交わりすることができます。仕事をしているときも、食事のときも、トイレに入っても、「聖霊様!」と呼びかけるといいと思います。そして聖霊様の思いを聞いてみましょう。語り掛けを聞いてみましょう。聖霊様が答えてくださることを受け取る練習をしていきましょう。だんだん、分かってくると思います。いつでもです。教会に来た時だけでなく、家にいる時や出かけているときもです。

主は、賛美の中に住まわれるお方です。ですから、賛美を生活の中に取り入れましょう。すると、聖霊様が喜ばれるのがわかります。喜びが内側に湧き起こって来るからです。「ああ、聖霊様が喜んでくださっている」とわかります。

詩篇 22:3(新改訳第3版)をお読みいたします。
22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

私たちが神様に賛美を捧げるとき、その賛美を受け取ってくださると約束です。そして賛美の中にいてくださるということです。ですから、聖霊様とお交わりしたければ、賛美をどんどん捧げることです。わたしたちが賛美すればするほど神様とお交わりを深めることができるわけです。

だから、礼拝で私たちはできるだけ多くの賛美をします。1曲や2曲ではないのです。もっとたくさんの曲を歌って神様を礼拝したいのです。それは神様をお喜ばせすることができ、聖霊様とお交わりすることになるからです。

そして聖霊と交わるには祈りが大切です。自分の言葉で祈ることも大切ですが、異言で祈ることはもっと聖霊様と交わることができます。異言では自分では何を祈っているのかわかりません。でも、霊が祈るのです。そして霊を通して聖霊様とお交わりさせてくださるのです。自分の力は要りません。私たちは声と舌と唇を主に捧げて祈るだけです。力を抜いて聖霊様に任せて祈る、これが異言の祈りです。

ですから、異言の祈りは、ある意味ですごく楽なのです。何を祈ろうか、どのように祈ろうかと努力しなくてもいいのです。任せることができます。聖霊が働いて必要なことを祈らせてくださいます。すると霊の世界が変わってきます。霊の世界が変わると、私たちの現実世界も変わってくるのです。これが聖書が主張する世界です。

ローマ8:26をお読みいたします。
8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

聖霊は、私たちに深いうめきを与えてくださると約束しています。ことばにならないうめきです。内側から、心の深いところから、うめきが起こってきます。それは異言の祈りの中で与えられます。自分がうめきを持って祈ろうと思うのではなく、聖霊様が与えてくださるのです。それは聖霊様の心です。思いです。必要なことを、うめきをもって祈らせてくださいます。

さらに、聖霊様はどういうお方かを見ていきましょう。ガラテヤ人への手紙5章22-23をお読みします。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

聖霊なるお方は、神としてのご人格を持っておられます。ここに9つの実が登場します。御霊の実です。これは聖霊様が持っておられるものです。聖霊様のご性質なのです。そしてそれを私たちにも持たせてくださいます。

先週、私たちを栄光から栄光へと変えてくださるというみ言葉を学びました。もう一度、コリント 3:18 をお開きしましょう。
3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。


御霊なる主の働き、これが私たちに御霊の実を結ばせてくださるということです。9つについて、一つ一つを簡単に見ていきましょう。

1)聖霊は愛に満ち溢れておられます
もし私たちが、愛に満ち溢れたいならば、あるいは愛が不足していると思うなら、聖霊様に近づく必要があります。聖霊様は愛とやさしさに満ち溢れておられるお方だからです。

2)聖霊は喜びにあふれておられる
もし私たちに喜びが不足しているなら、聖霊に近づく必要があります。使徒の働き13:52をお読みします。
13:52 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
13:52 聖霊に満たされると喜びが来ることがわかりますね。

3)聖霊は平安にみちあふれておられる
もし私たちに平安が不足しているなら、聖霊様に近づく必要があります。
ローマ8:6をお読みします。
8:6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
私たちの肉の考えや思いは、私たちを死に導くということです。この死は永遠の滅びのことを言っています。しかし、聖霊の思いは、私たちにいのち、永遠のいのちを与えること、そして平安を持つことを願っておられます。

4)聖霊は寛容に満ち溢れておられる
聖霊は、ゆるしに富んでおられるお方です。
寛容は、心が広いことを言います。人を小さな心で判断せずに受け入れることを言います。もし自分の内に寛容さが足りないと感じるなら聖霊に近づく必要があります。聖霊様は寛容なお方だからです。
Ⅰヨハネ1:9をお読みします。
1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

5)聖霊は親切に満ち溢れておられる。
もし自分の内に親切さが足りないと感じるなら聖霊に近づく必要があります。
イエス様が、あるとき放蕩息子の話をされました。(ルカ15章)この放蕩息子は、町に出て行って、父親からもらった全財産を湯水のように使い果たしてしまいます。

この父親は、毎日、この息子の帰りを待っていました。聖書を読むと、この父親は、まだ家まで遠かったのにこの息子を見つけたと書いてあります。この父親の愛情と思いがどれだけ深かったを知ることができますね。この父親は神様のことを表しています。そして聖霊様の心でもあります。聖霊様は思いやりのあるお方なのです。

6)聖霊は善意に満ち溢れておられる
 もし自分の内に善意が足りないと感じるなら聖霊に近づく必要があります。善意とはなんでしょうか。善意は、
1 つ目は、良い心です。 2つ目は 、他人のためを思う親切心や好意のことです。 3つ目は、 好意的に相手の言動などをとらえることです。善意の反対は悪意です。悪意が無いことと考えるとわかりやすいですね。聖霊は私たちの益を図ってくださるお方です。善意にあふれておられます。

7)聖霊は誠実さに満ち溢れておられる。
 もし自分の内に誠実さが足りないと感じるなら聖霊に近づく必要があります。誠実を辞書で調べてみると、「まごころがあっていつわりがなくまじめなこと」とあります。ごまかしがなく、正しいことをちゃんと行うということだと思います。
先ほどのⅠヨハネ1:9のお言葉に中に、「神は真実で正しい方ですから」とあります。神は誠実なお方なのです。

8)聖霊は柔和さに満ち溢れておられる
 もし自分の内に柔和さが足りないと感じるなら聖霊に近づく必要があります。柔和とはどんなことでしょうか。Googleで調べてみると、「やさしく、おだやかなさま。とげとげしい所のない、ものやわらかな態度・様子。」とあります。いつでも優しく穏やかに接してくださるお方なのです。感謝です。とても近づきやすいお方だということです。だから私たちは、どんなときでも、いつでも、このお方に信頼することができます。柔和なお方だからです。

ガラテヤ6:1をお読みします。
6:1 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

聖霊様がそうであるように、私達も聖霊様のように柔和さを身に着けていこうではありませんか。「だから言ったでしょう。プンプン」ととげとげしく言うのではなく、相手の過ちを柔和な心で正そうではありませんか。

9)聖霊は自制に満ち溢れておられる
 もし自分の内に自制が足りないと感じるなら聖霊に近づく必要があります。聖霊様は、「自分が、自分が」という自分ファースト、自分本位のお方ではなく、私たちのことを大切にされるお方です。聖霊様は紳士的なお方です。決して強制はしません。その人の自由意思を尊重されます。そして自主的に動くのを待たれるお方です。

聖霊様は9つの実以外にも、特徴を持っていらっしゃいます。ローマ15:13をお読みします。
15:13 どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

私たちが聖霊に満たされると、希望が出てくることがわかります。希望にあふれるとはどんなことでしょうか。将来やってみたいことが沸き起こるということです。フツフツと願いが起きてきます。アイデアが浮かびます。計画を立てようという思いがやって来ます。そのように聖霊様は私たちに喜びと平安のある将来をビジョンとして見せてくださいます。

自分がイエス様を信じる前は、自分の世界は本当に暗かったのです。暗闇が自分を圧迫している感覚でした。自分の将来はいったいどうなるのだろうかという不安がありました。でもイエス様を信じた途端に、この暗闇が消え去ったのです。喜びと平安がやって来ました。そして希望が与えられました。将来の計画を持ち始めたのです。そうだ、もともと好きだった電気系の学校に行こうと思いました。電気関連の仕事につきたいと思うようになりました。神様はいろいろな希望を与えてくれました。

ギターもドラムを好きでした。すると、その奉仕を与えてくれたのです。好きな分野での希望が開けてきたのです。神様はそういうお方です。一人一人の特徴を生かすように、その好きな分野で活躍できるように導いてくださいます。

エペソ4:30をお読みします。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。


聖霊様は感情をもっておられます。悲しむことがあるのです。そしてその悲しみを私たちに知らせてくださいます。間違った発言をしたりするとよくわかります。自分の心が痛みます。「あー、あの発言は間違っていたな」と気づくわけです。取るべき行動をやらなかった時もそうです。心の内側の聖霊が悲しんでおられるのがわかります。自分の心の痛みとも違います。霊の内側で悲しみが発生するのです。罪を犯したときもそうです。

そして聖霊様は罪を示されます。
ヨハネ16:8-10をお読みいたします。
16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

罪を罪だと示してくださることは、感謝なことです。聖霊様が教育係となって私たちを指導してくださるからです。そのようにして私たちを整えてくださいます。

若いころ、栃木で仕事をしているころです。ある一人のクリスチャンの青年がいました。彼は大学生でまだ運転免許を取ったばかりで、車の運転がまだ慣れていませんでした。その彼が、ほかの人の車にぶつけてしまったという話をしたことがあったのです。私はその話を聞いて思いました。「あー。なんてドンくさい奴だ。そんなことは、簡単にできるだろう。」すこし心の中で馬鹿にしてしまいました。

ところが、ところが、その帰り道、車で音楽を聴きたくてオーディを操作してしまい、不注意のために、自分が人の車にぶつけてしまいました。ほんの少しだけでしたが、1cmくらいの小さなくぼみができてしまいました。「あちゃー。」

でもここで学んだことがあります。痛い思いをしました。でもこれは神様が経験させてくださったと痛感しました。「高ぶってはいけないよ。すべてわたしが守っているから、あなたは安全でいられることを知っておきなさい」ということでした。アーメン。この若い時にこの経験をしてから、時々そのことを思います。神様の守りがなければ、やっていけないなと思います。決して高ぶってはいけないということを学びました。このことを聖霊様が教えてくれました。

聖霊様は私たちを清めてくださるお方です。なぜ私たちは清められる必要があるのでしょう。それは、私たちは肉を持つ存在だからです。肉とは、肉体を持っているということと、肉的な性質を持っているということです。


ガラテヤ5:16-17をお読みします。
5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
5:17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

聖霊様と私たちの肉の性質は対立すると記されています。対立して互いに逆らうと言います。聖霊様は私たちの内側に住んでくださっています。そのお方とわたしたちの肉の性質が互いに対立すると言うわけです。どういうことになるのでしょうか。自分自身が分裂して壊れてしまうのでしょうか。

聖霊様は愛なるお方です。私たちに勝利をあたえてくださいます。聖書は、私たちに御霊によって歩むことを求めています。すなわち、この肉を殺すこと、肉に死ぬことを求めているわけです。

わたしたちは、自分の肉の力でクリスチャン生活を送ることはできません。自分の肉の力ではどうしても限界があります。疲れ果ててしまうのです。肉の性質を持つ自分自身は弱いからです。聖霊様の助けを受ける必要があります。

聖霊様は私たちを助けてくださるだけでなく、豊かな御霊の実を結ばせてくださるお方です。この方を歓迎し、ますますこの方にお頼りしていきましょう。

私たちが勝利するクリスチャン生活、喜びと平安に満ちたクリスチャン生活を送るためには、どうしても聖霊様に助けを求めることが必要です。聖霊様は紳士的なおかたですから、必ず助けてくださいます。わたしたちますますこのお方にお頼りしていきましょう。豊かな御霊の実を結んでいきましょう。

 

 

 

 

 

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