テキスト:出エジプト33章18-23
33:18 モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
33:19 主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
33:20 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
33:21 また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。
33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。
33:23 わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」
今日の聖書箇所は、出エジプトの33章と34章です。32章では何があったのでしょうか。ここでモーセは衝撃的な出来事に遭遇するのです。このとき、モーセは40日40夜断食をして山に登り、大切な神の教え、十戒をいただいたばかりでした。
何があったのでしょう。イスラエルの民の堕落です。大きな偶像崇拝の罪を犯すのです。「40日間もモーセは山に登って戻ってこない。きっともう死に絶えているに違いない。私たちは私たちの神を作ろう。」そう言って、民全体から金の耳輪のアクセサリーをかき集めて金の子牛を作ってしまいます。
そればかりでなく、食べて飲んで踊って、どんちゃん騒ぎを始めてしまいました。
「モーセの代わりにあなたが指導者となり、神に伺って、私たちイスラエルの民を導いてください。」とモーセの兄アロンに言いませんでした。神を作ってくださいと頼んだのです。人間は本当愚かだと思います。
自分の自由になる神を作ろうとします。神に従う代わりに、自分に神を従わせようとします。その結果が偶像の神です。にせものの神です。
モーセは、このイスラエルの民の堕落した姿を見て本当に落胆します。神様から、偶像の神を作ってはいけない、とお言葉を受けたばかりでした。そしてあまりの落胆と憤りのために、せっかく神様から頂いた2枚の石の板、十戒の板を打ち砕いてしまいます。
その後のできごとがこの33章です。1節から3節までお読みいたしましょう。
33:1 主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。
33:2 わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、
33:3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」
3節で、神はもうああなたがたと一緒には行かない、と言われました。あなたがたは、うなじを固くする民だから、わたしが絶ち滅ぼすかもしれないと言われました。「うなじを固くする」とはなんでしょうか。うなじは、首の後ろ側です。ここが固くなるというのは、なかなか頭を下げないということです。これは、強情さ、頑固さ、高慢である様子を表しています。
イスラエルの民を数々の奇跡をもってエジプトの奴隷から救い出し、紅海という大きな海を渡らせてくださった、救い主である神様に素直に従おうとしませんでした。
たとえ救ってくれたとしても、自分の思い通りの生き方をしたかったのです。これは、私たち一人一人の本質を現わしています。私たち一人一人がうなじの固い者なんです。このイスラエルの民は私たち人間の姿を表しています。
奇跡的にイエス様と出会った人は、そのイエス様の十字架の前にへりくだることができます。その十字架の血のありがたさを知ることができるのです。これは本当に神様の憐みです。恵みです。この恵みを知った人は本当に幸いな人だと思います。
さてモーセは、落胆から立ち上がって神様を求めます。「どのようにこの民をわたしは導いていったらいいのでしょう。あなたは一緒に行かないと言われるし、だれが一緒に行くのですか。あなたが一緒でないなら、もう約束の土地へ上らせないでください。でも、どうか一緒に行ってください。」
さらに求めます。33章18節をもう一度お読みしましょう。
33:18 モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
「あなたの栄光をわたしに見せてください。」 これまで以上の神様の御力がなければ、この民を導くことは不可能だと思ったと思います。
モーセは天幕のなかで神様のお言葉を受けていました。聖書には、神様は、モーセとは自分の友と語るように語られたとあります。そして顔を顔を合わせるように語ったとあります。神は霊的な存在です。肉体はありません。ですから、具体的に顔と顔を合わせたわけではなく、それほど近い関係だったという表現だと信じます。
それほど、モーセはだれよりも神様と近い預言者でした。偉大な指導者でした。しかしモーセは、それだけでは十分ではないと考えました。だから、「あなたの栄光をわたしに見せてください。」とお願いしました。
神様はこのモーセの祈りに対してどのようにお答えになったのでしょうか。「いいえ。わたしの奇跡も栄光もいやというほど見せて来たではないか。もう十分だ。」と言ったでしょうか。
神様はモーセの祈りを聞いてくだったのです。このことを通して、神様は私たちの祈りも聞いてくださるということを知ることができます。モーセの無理なお願いも聞き届けられました。ハレルヤ。感謝です。
主は、その栄光の輝きをモーセにお見せになりました。34章4節-8節、飛んで27-28節をお読みしましょう。
34:4 そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。
34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。
34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、
34:7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」
34:8 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。
34:27 主はモーセに言われた。「これらのことばを書き記せ。わたしは、これらのことばによって、あなたと、そしてイスラエルと契約を結んだからである。」
34:28 モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。
ここにモーセにそのお姿をお見せになった様子が描かれています。どのように登場されたのでしょうか。主は雲の中にあって降りて来られたとあります。雲は神様のご臨在を象徴するものです。
神様のご臨在、栄光があるところにはいつも雲がありました。イスラエルの民を導かれるときは、昼は雲の柱が。夜はその雲の中に火を置きました。それがいつも立っていたのです。イスラエルの民がいつでも見ることができました。とても分かりやすかったのです。神様の栄光を仰ぎ見ることができました。
イエス様が弟子たち3人を高い山に連れて上られた時、何が起きたでしょうか。イエス様の姿が変わりました。モーセとエリヤが現れました。そして最後に全体が雲で覆われました。神様が声を響かせられました。この時の雲も神様のご臨在、栄光を現わしています。
ソロモンが神殿を建てて奉献したとき、神様の雲が宮に満ちたとあります。そしてその雲のために祭司たちが立って仕えることができなかったと記されています。(第二歴代誌5章) 神様の栄光、神様のご臨在があまりにも強いので、彼らは立っていることができませんでした。
イエス様がもう一度帰って来られるとき、どのように帰って来られるでしょうか。マタイ24章30節を見てみましょう。
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
天の雲に乗って来られるとあります。キリストは、神様の偉大な力と栄光を帯びてこの地上に戻って来られます。
このように、雲は神の栄光を現わし、神のご臨在を現わしています。
でもモーセが求めたのは、雲だけではありませんでした。その先にあるもっと深いものでした。神の栄光のお姿を求めたのです。でもそれは命がけでした。誰も神を見てなおも生きていることはできないからです。それほど、清い聖なるお方だからです。
そして神様はモーセの祈りを聞かれて、宣言されました。「わたしは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」
ここで神様は、モーセに特別に神様の栄光のお姿をお見せになりました。と言っても、その姿は後ろ姿と呼ばれるほどの強烈な神様のご臨在だったと思われます。
しかし、お言葉を加えられました。神様のご性質を示されたのです。「わたしの性質を覚えていなさい。恐れなくてもいいよ。」と語って下さったのです。感謝ではないでしょうか。神様はまことに信頼することのできるお方です。
神様は、憐み深く、恵み深いお方ですが、清く聖なるお方です。そのお方にわたしたちはどれほど、神様を求めるために近づくことができるのでしょうか。
できるだけ離れて遠くから呼びかけるのでしょうか。ヘブル人への手紙4章15-16節をお開きしましょう。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
わたしたちは、大胆に御座に近づくことができると言われています。あまりの清さのために殺されないのでしょうか。
私たちの大祭司、イエスキリストがとりなしてくださるというのです。どのようにとりなすのでしょうか。イエス様ご自身の尊い血潮を流してすでにすべての罪の刑罰、罪の借金を支払ってくださいました。
ヘブル10章19節をお開きしましょう。
10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
キーワードはイエスの血です。神様が私たちを見られるとき、私たちの罪ではありません。イエス様の血潮です。私たちがイエス様を信じる時、心に塗られたその血を見て「ああ、あなたには罪はない」と言われるのです。
ですから、わたしたちは大胆に御前に進むことができます。そして私たちは、モーセのように、「あなたの栄光を私に見せてください」と求めることができるということです。
今の時代、わたしたちは恵み時代に生きています。イエス様が十字架で死なれ、その血の代価を支払われたからです。わたしたちは大胆に神様を求めることができます。もっと栄光を見せてくださいと祈ることができます。そして私たちの内におられる聖霊様を通してその栄光を見ることができると約束されました。このことを私たちはもっと求めていきましょう。そして聖霊に満たされることを求めていきましょう。