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失われた人を捜して救うために来た (ルカ11:14-26))

テキスト ルカ11:14-26
11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
11:21 強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。
11:22 しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。

今日のテキストはイエス様が悪霊を追い出されたという記事です。悪霊とはどんな存在でしょうか。あまりなじみが無いのですが、たしかに存在するのです。聖書に記述されていることは、確かに存在することであります。今日のテーマは悪霊に焦点を当てることではありません。ですから悪霊を怖がることでもありません。私たちは常にイエス様のすばらしい御業に焦点を当てたいと思います。

悪霊は、人間を苦しめる存在であることがわかります。この悪霊は、口をきけなくする悪霊でした。聖書には、いくつかの種類が出てきますが、この悪霊は他の人に明らかな危害を加えるような恐怖の霊ではなく、からだの障害を与える霊であることがわかります。

病気や障害の全ての原因が悪霊ではありません。しかし、中には悪霊が原因していることがあります。そのときには、その悪霊をイエス様の御名によって追い出す必要があります。イエス様のお名前にはその権威があります。悪霊はイエス様の権威に従わなければなりません。なぜなら、イエス様は王の王、主の主、すべての権威を作られたお方だからです。神の御子キリストだからです。

悪霊はもともと天使でした。神によって造られた存在です。イエス様は神の御子としてその創造に携わっておられました。ですからすべての権威があります。どんな霊もイエス様に逆らうことはできません。

十数年前、仕事が終わり、夜の会食があって車を運転して参加したことがあります。その夜の会食を終えて帰路につきました。ところが300mくらい行ったところでパトカーに留められたのです。夜の検問、酒気帯び運転の取り締まりでした。簡単なチェックを終えて「気を付けて安全運転でお帰り下さい」という一言で解放されました。もし、私が「何も検問に引っかかるような悪いことは何にもしていない」といって警察官の指示を無視て逃げていったらどうなるでしょうか。酒気帯びの疑い100%となってとことん追いかけられ、追いつめられるでしょう。その後こっぴどく絞られるでしょう。場合によっては新聞沙汰になって職を失うかもしれません。私たち市民は警察官の職務による命令には従う義務があります。それだけ、彼らは市民生活の秩序を保つために特別な権威を帯びているのです。だから、私たちは安心して暮らすことができます。

たとえ、自転車乗りでも、大型トラックでも、バスでも、重機を運転する人でも、警察官は彼らを停止させる権威を持っています。私たちはその権威に従わないと生活できません。逆らっては生活できません。イエス様の神の御子としての権威も似ています。すべての造られたものの上に権威を持っています。ですから悪霊たちはイエス様に従う必要があるわけです。

このときも、イエス様はものすごい力ある奇跡を行なわれました。口がきけない人がしゃべれるようになりました。同時にその耳も癒されたと思われます。

しかし、ある者たちはイエス様のことを批判したのです。「彼はベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ」
ベルゼブルとは、バアル・ゼブルということばから来ていますが、バアルという異教の豊穣の神の名前がついています。ゼブルというのは、主人という意味です。信仰深いユダヤ人にとっては異教の神の頭、すなわちサタンを意味していました。イエス様の悪霊追い出しをサタンの力によって行っているといって批判しました。

しかし、イエス様は聖霊様の力で悪霊を追い出していたのです。イエス様を最大限に侮辱したのです。

このことを理解するには、当時のユダヤの状況を知る必要があります。イエス様が悪霊を追い出すというそのみわざを行う前にも、ユダヤ人たちの中に、悪霊払いをする人たち、魔除け祈祷師がいた、ということです。使徒行伝の19章にもその記事が出てきます。

19:11 神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた。
19:12 彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出て行くほどであった。
19:13 ところが、ユダヤ人の巡回祈祷師のうちの何人かが、悪霊につかれている人たちに向かって、試しに主イエスの名を唱え、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。
19:14 このようなことをしていたのは、ユダヤ人の祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。
19:15 すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」
19:16 そして、悪霊につかれている人が彼らに飛びかかり、皆を押さえつけ、打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家から逃げ出した。
19:17 このことが、エペソに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡ったので、みな恐れを抱き、主イエスの名をあがめるようになった。

このユダヤ人祈祷師たちは、パウロの驚くべき奇跡のわざを見聞きしていました。パウロが何によって悪霊を追い出しているのかを良く調べて研究したのです。すると、イエスの御名によるものであることがわかりました。そこで、実践してみたのです。やったことのないことを積極的にやってみようとするその態度はすばらしいですね。でもその中に教えがありませんでした。真理がありませんでした。うわべだけでした。イエス様をもっていませんでした。

すると、逆に悪霊からはげしく攻撃を受けました。コテンパンにやられました。裸にされ、傷を負いました。まるで、何の力も技術もない人たちが、武術家や空手の達人に戦いを挑むようなものです。本当に愚かなことです。

イエス様は、このルカ19章のこのユダヤ人たちに答えます。もしわたしがサタンの力で悪霊を追い出していたのなら、あなたの仲間たち魔除け祈祷師たちも、同じサタンの力によって追い出しているということにならないのか、と諭しました。自分たち仲間を辱めることになりますよと。

さらにイエス様は付け加えて話されました。自分の家をきれいに掃き清めてきれいにした人の話です。掃き清めるというは、魔除け祈祷師によって悪霊を追い出すことを指しています。ある人が、魔除け祈祷師によって悪霊を追い出してもらいました。出ていった悪霊は、あっちこっちさまよいました。しかし休むところが見つからずにもといた自分の家、自分を追い出した人のところに戻ってきたというのです。

ところが、なんと、その場所がきれいになって片付いていいました。わたしたちは、自分の住まいがきちんと片付いてきれいになったらといつも考えます。きれいになると嬉しくなります。気持ちが晴れ晴れしますね。

でも悪霊にとっては違います。美しさを憎みます。整理整頓された世界を嫌います。混沌と混乱、不潔と汚い世界を好むのです。争いと憎しみを好みます。ああ、こんなじゃなかったのに、とても住めないといって、自分よりもさらに悪い霊を連れてくるというのです。そして、悪霊追い出しをする前よりももっと悪い状態にするというのです。

この自分の家をきれい掃除をした人の間違いは何だったでしょうか。この人の間違いは、ただ悪霊に出て行ってもらったということでした。自分よりもこの霊的な存在はもっと強いということを忘れています。だから、私たちは、この悪霊たちよりもさらに強いお方に守っていただく必要があるわけです。

どんなに、悪霊追い出しをしても、その内側にイエス様がいなければ負けてしまいます。どうしてもイエス様が必要です。どんなに人間的な取り組みをしてもダメです。王の王であるイエス様が必要です。

イエス様は何のためにこの地上に降りて来られたのでしょうか。わざわざ神の御子が天から降りてくる必要があったのでしょうか。ルカ19章10節をお読みいたします。

ルカ19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
イエス様は、失われた者を捜すと言われました。そして彼らを救うために来たのですと言われました。

失われた者とは誰のことでしょうか。わたしたち人間、一人一人のことを言っています。わたしたちは皆だれでも失われたものです。その内側に生まれながらにしてイエス様がいないのです。皆失われています。だれか失われていない人はいないのでしょうか。いません。皆失われた者です。なぜでしょうか。

それは、アダムとエバの反逆によって、私たちは神に背く者となったからです。だれでも罪を犯す存在として生まれます。だれでも神様に背いて生まれてきます。「自分は自分の思うとおりの生き方をしたい。だれにも指図されたくない」その思いをだれでも持っています。そして神なしの生活、神様は要らないという生き方をします。

自分で自分の神様を持つ人はいます。それは、全能者なる造り主の神ではなく、自分の思い通りになる神様です。これは神様ではありません。

イエス様は、私たち失われた者を捜すお方です。そして捜し出して救うために来られました。イエス様はそのために来られました。そのために、地上に人としてお生まれになったのです。そして十字架にかかられて死なれました。それは、最初から神様のご計画でした。十字架の死は失敗ではないのです。御子キリストを罪のためのいけにえとすることは神様のご計画でした。何のためでしょうか。私たちを罪から救うためです。

救いとは何でしょうか。私たちは、もともと罪に汚れて滅びる存在です。でもその滅びるべき私たちをその滅びから助け出してくださいました。それが救いです。滅びないでどうなったのでしょうか。その反対のすばらしい恵みを受ける者とされました。永遠のいのちをうけました。そして神の子としての特権を受けました。その国籍は天にあります。

どのようにイエス様は助け出してくださったのでしょうか。罪の清算が必要でした。イエス様がこの莫大な罪の支払いを支払ってくださいました。私たち自身では、どうしても支払うことができません。人間はみな罪人だからです。支払うものを持っていません。何の罪もない、キリストだけが支払うことができました。十字架の上で尊いご自身の血を流されたのです。

罪の赦しには、血が必要でした。これがユダヤ人に与えられた教え、律法です。神様は、忠実にそのことを成されました。キリストの血を注ぎだされたのです。

ここで、もう一度、罪について確認しておきましょう。私たちを滅びに定める罪とはどんな罪でしょうか。先ほども言ったように、神様に背く罪、神様は要らないという反逆の罪です。これを人間の原罪といいます。もともと持っている罪です。この原罪があるから、さまざまな罪を犯します。

でも私たちは、この滅びに定める罪から解放されました。
ローマ6:23を開きましょう。
6:23 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

イエス様のこの永遠のいのちは、すべての人のために備えられ与えられるものです。でもすべての人が受け取ることをしません。これは神様からのプレゼント、贈り物です。神様はすべての人が受け取ることを願っていらっしゃいます。

テモテへの手紙第一2:4をお読みしましょう。
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。

神様の切なる願いは、人々が救われることです。私たちはこのことをしっかりと心に留めましょう。だれも滅びることを願っておられません。父なる神様は一番大切なものを私たちに下さいました。それは御子キリストです。このお方を犠牲にしてくださいました。父なる神様にとっては一番大切な存在です。

自分の一人息子を犠牲にする人がこの世の中にいるでしょうか。居ないと思います。でも父なる神様はそのことをなさいました。それほど私たちを愛してくださっているということです。

これほど、大切な存在を私たちにプレゼントしたのに、私たちはなぜそのことに気づかないのでしょうか。なぜ受け取ることができないのでしょうか。受け取ろうともしないのでしょうか。

それは、私たちの目をおおう敵がいるということです。敵の働きは、神様のわざを台無しにすることです。これが敵のねらいです。神様の恵みが無駄になればなるほど、敵は喜ぶのです。私たち人間が滅びていけばいくほど、敵は喜ぶのです。
ヨハネ10:10のお言葉を開きましょう。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
イエス様は、この敵を盗人として表現しました。サタンのことです。彼の仕事は、盗むことです。神のものを盗んだり、人のものを盗んだり、人を苦しめ、人を殺します。人を滅ぼすことが彼の仕事です。彼は神への反逆者だからです。神が憎むことをことごとく行います。

そして人を騙すのです。人の目をおおうのです。人は、目が覆われて真理が見えなくなっています。だから、どこに救いがあるのか、正しいことがあるのか見えなくなっています。ヨハネ8:44を開きましょう。

ヨハネ8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。


この言葉は、宗教家を名乗るユダヤ人たちへのイエス様の厳しいお言葉です。サタンは、偽りの父とあります。私たちに嘘をついて私たちを騙そうとする存在なのです。いつも真逆のことを言います。聖書に書いてあることに反逆するのです。そして曲げようとします。イエス様にさえも「私を拝め」と言いました。イエス様は、「神である主だけを拝み主にだけ仕えなさい」と聖書に書いてある、と言ってサタンを退けました。

間違ったことを言って人を誘惑する存在、これがサタンです。

でも、感謝なことに、神様は私たちを罪から救ってくださいました。私たちの目のおおいを取ってくださったのです。ですから、神様の真理を見ることができます。真理を理解する者とされました。感謝ではないでしょうか。

これは、神の奇跡です。神様と出会うということは大きな奇跡です。神様を信じることができたということは、大きな奇跡なのです。これは、人間にはできないからです。人間の努力ではできないのです。これは聖霊様のはたらきななのです。どんなにあの人を救いたいと頑張っても、私たちの努力や働きではどうしようもありません。これは神様の働きです。聖霊様の働きです。ですから奇跡なのです。

私たちが自分の罪を悟ることも、奇跡です。自分が罪人であることは、目がおおわれている間はわかりません。聖霊様がこの目のおおいを取ってくださるまではわかりません。だからこれは奇跡です。でも私たちはこの恵みに預かったのです。これ程のすばらしいことはありません。

私たちは、この救いという大きな恵みに出会いました。イエスさまからいただきました。なんと感謝なことではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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