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祈りの祭壇を築く①

【テキスト】マタイ6章5-15

6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 

イエス様はよく祈られるお方でした。ルカ5章15-16をお読みします。

5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。

5:16 だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。

 

イエス様は、人里離れて、人が居ないところで祈られたということです。しかも、たびたびこのことをなさっていました。夜が明けると人々が我先に我先にと集まって来るので、暗いうちに起きて祈りに行かれました。

 

イエス様は私たちに模範を示されました。祈るための姿勢を見せられました。そして私たちにもよく祈るようにと教えておられます。

 

お祈りとは何でしょうか。どうしてお祈りをするのでしょうか。祈りは、私たちと神様との生きた関係を築くものです。主とのお交わりです。そのお交わりを保つようにイエス様は教えておられます。私たちの生活の中で祈りの祭壇を整える必要があります。

 

これは目には見えません。香の壇もありませんし、線香もありません。自分の生活の中で、この祈りの習慣をしっかりと確立すること、これが祭壇を整えることです。

 

祭壇を整えるために次の2つのことを

心に留めましょう。

 

一つ目は祈りの祭壇が建てられているかということです。

祭壇が建てられているのかいないのか、次の事柄から見分けることができます。

①時間は確保しているか

あまりに忙しすぎると、なかなか祈る時間が持てません。多くの人々は、サラリーマンは朝からものすごく忙しいです。できるだけギリギリまで寝て、体力を回復したいと思っています。時間が来るとさっと起きて、顔を洗い、着替えて、食事をして、弁当を詰めて、ガガガと慌てて出ていきます。

いつ祈るのでしょうか。理想的には、行動を始める前に30分早く起きて主との交わりを持つことです。デボーションと言いますが、み言葉を味わい、その日の祝福を祈り求めます。それから行動を開始するのがベストです。

 

なかなか30分で主との交わりを持つことは時間的に足りないと感じます。あるいは、30分が20分になったり、15分になったりもします。そんなときは、出勤途中で神様と交わります。車を運転しながらも、主と交わるのです。どのようにして交わることができるのでしょうか。もちろん、日本語の言葉で祈ることもできますが、自分はよく車を運転するときは、異言で祈ります。どのように祈るのか、頭で考えなくてもいいです。聖霊様が祈りを導いてくださいます。これが異言の祈りです。

 

②祈りの環境が整っているか

静かに祈れる環境があるかということです。イエス様も苦労されました。ですから、暗いうちに起きて荒野に行かれました。だれにも邪魔されないところです。祈ってもだれにも聞かれないところです。神様だけに祈りが届くところです。

 

理想的には、自分の部屋があるということです。もしどうしても場所がないという人は、トイレのなかでもOKです。押し入れでもなんでも静かにひとりになれる空間が必要です。さらに理想的には、少々声を出しても誰にも聞かれない、邪魔されない、迷惑をかけない、そのような場所があることです。

 

まだ無いという人は、主に祈って、そのような祈りの場所が与えられるように求めていきましょう。

 

2つ目は祈りの祭壇が壊れていないかチェックするということです。

祈りの祭壇は自分の生活の中にある、という人は、次の2つについて点検をしてみましょう。

 

①罪がないか

祈りの祭壇を壊すものは何でしょうか。それは罪です。いつの間にか自分の中に罪が入っていないかどうか点検しましょう。もし、自分の内に罪があった、ということになればどうしたらいいでしょうか。

 

「ああ、もうだめだ。わたしは罪人だ。もう神の恵みと祝福にあずかれない。わたしは最低な人間だ。神様を裏切ってしまった。罪を犯してしまった。もうだめだ」となるでしょうか。

 

自分がクリスチャンになりたてのころ、よくそのような状況に陥ったものです。そしてよく落ち込んでいました。でも私たちが御言葉に堅く立つとき、そのように落ち込む必要はないということがわかりました。Ⅰヨハネ1:9を開いてみましょう。

1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちを

すべての不義からきよめてくださいます。

 

このみ言葉から、神様は私たちのどんな罪でも赦してくださるということがわかります。私たちが罪を告白して捨てるなら、主は赦してくださいます。これをわたしたちは悔い改めると言います。告白というのはそういう意味です。重みがあります。

 

独身の男性の誰かが、ある女性に、「好きです」と告白したら、これはとても大きなことです。重みがあります。この女性が自分も好きだったら、これほどうれしいことはないでしょう。しかし、嫌いだったら秒速で断りますね。それほど、重大なことだからです。もし、この男性が心の中で思っているだけだったらどうでしょうか。それほど重大ではないですね。様子を見ているだけだからです。でも告白するなら、重大です。

 

私たちが罪を告白するというは、公にできるものもあればできないものもあります。でも神様の前には正直に告白する必要があります。その重みのある告白を、神様は聞いてくださいます。そして赦してくださいます。

どうしてでしょうか。それはイエス様が身代わりとなって十字架で血を流されたからですね。これは神様の大きな約束です。

 

私たちがこれをしないで、いつまでも罪を持ち続けていると、私たちの内に住まれる神様との交わりができなくなってしまいます。神様が遠く行ってしまったと感じるようになります。神様が遠くに行ったのではなく、私たちが覆いを作ってしまっているのです。壁を作ってしまいます。これを取ってしまいましょう。

 

②人を赦していないことはないか

イエス様が弟子たちに祈りの方法を教えてくださいました。その最後に、人を赦すことについて言っています。

6章14-15を読んでみましょう。

6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

私たちが人を赦さないなら、神様もあなたを赦さないと書かれていますね。イエス様はすぐ前では、「私の罪をゆるしてください」と祈れと言っています。しかしその祈りは聞かれませんと言うわけです。なぜでしょうか。あなたが赦さないからですと言われました。

 

これは大変ですね。祈りが聞かれないのです。どんなに祈っても「あなたの祈りは聞かれませんよ。その前に人を赦しなさい」と言われるわけです。

 

「自分の罪が解決できた、ちゃんと悔い改めて告白した、わたしの祈りの祭壇は整った」と思ったら、「まだ他人の犯した罪が残っている」というわけです。そこに罪が残っているわけです。自分ではなく、他の人が犯した罪です。

 

「主よ。わたしが悪いのではなく、悪いのはあの人です。あの人が悔い改めて告白して謝るまでは、私は赦しません。」これが私たちのありのままの姿ではないでしょうか。

 

でも神様は、そこに罪が残っていますよと言われるわけです。あなたが赦してあげるならその罪は残らないのですということです。

 

なぜでしょうか。なぜ神様はそこまで赦すことを要求されるのでしょうか。それは神様が赦す存在だからです。これは神様のご性質だからです。私たちにもそのようになってほしいと願っておられるわけです。

 

マタイ18章に6000億円の借金を全部赦された人の話があります。ところがこの人は、自分が貸した100万円の謝金を赦してあげませんでした。自分は直前にすべての借金を全部なしにしてもらったにもかかわらずです。すると王様からおしかりを受けるわけです。

 

これは何を教えているのでしょうか。私たちの罪の重さは、6000億円にたとえられるということです。100万円というのは人が自分に犯す罪のことです。たった100万円を赦すことができないのか。わたしが全部赦したのだから、あなたも赦してあげなさいというわけです。

 

人を赦すこと、これは神様の憐みのご性質です。イエス様も最後の最後まで人を赦されました。「父よ。彼らをお赦しください」と十字架の上で祈られました。

 

私達人間には人を赦す力はありません。でもイエス様が十字架の上で死んで、すべての罪を背負ってくださったので、すべての人は赦されることができます。私たちは、イエス様の十字架の血の力によって、その人が赦されるようにと祈ることができます。主がその祈りを聞いてくださるということです。これが私たちの持っている赦す権威です。その人の罪が赦されるようにと祈ってあげなさいということです。

 

人を赦すことは簡単ではないかもしれません。でも神のご性質に倣って赦す者となりましょう。これが、祈りの祭壇を立て直すための必要なことだと主は語っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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