【テキスト】マタイ28:20
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
イエス様は世の終わるときまで、いつもわたしたちと一緒にいてくださると言われています。これは約束です。私たちの目には見えませんが、聖霊様として私たちの心の中に住んでくださっています。
なんとすばらしい約束でしょうか。どこに行っても、何をしていても、イエス様が一緒です。感謝ですね。どのような危険な場所にいても、ひとりしかいないような場所にいても、イエス様がいつも一緒です。
でもこれは、私たちにとって本当に感謝でありますが、イエス様の願いでもあります。いつも一緒にいたいという願いです。イエス様は私たちといつも一緒にいたいのです。なぜならイエス様は私たちを愛してくださっているからです。私たちのことが大好きで大好きでたまらないのです。
イザヤ43章と49章をお開きいたしましょう。
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。
49:16 見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
神様から私たちを見るとそれは宝石のように輝いているというのです。しかもただの宝石ではない、ものすごく高価な宝石です。
また、女性たちが自分の赤ちゃんを忘れることがないように、神様も私たちを決して忘れることがないとあります。いつもいつも覚えていて気にかけていますよと言われています。
そして神様はわたしたちの名前が神様の手の平に刻み込まれていると言われます。手の平に刻む、これは、入れ墨をするということです。昔、沖縄では女性が成人すると手の甲に入れ墨が施されました。ハジチと言われています。針を使って骨まで染めるやり方で、かなり痛いもの、激しい苦痛を伴うものだったそうです。
イエス様も私たちのために激しい痛みと苦痛を経験されました。十字架です。両手両足を太い釘で突き刺されました。胸を槍で刺されました。そして十字架の上で私たちのために祈ってくださいました。十字架の上で刻まれた私たちの名前は決して消えることはありません。それほどまでに私たちを愛してくださっています。
ゼカリヤ書を開きましょう。
1:14 私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。
ねたむほど激しく愛したとあります。普通、ねたむという言葉は、悪い意味で使うことが多いです。人のことをねたんではいけないとか言います。しかし神様はねたむほどに私たちのことを愛してくださるというのです。
わたしたちが、私たちの内に住んでおられる聖霊様を粗末に扱い、ほかのものに一番の興味関心を示すなら、神様がそのことをねたまれると言うのです。それほどに聖霊様を大事にしてほしいと願っておられます。なぜなら、聖霊様は神ご自身であるからです。
神様と私たちの間に割って入ってくるものは何でしょうか。それは私たちを信仰から遠ざけるものです。かつて私たちはそのような生き方をしていました。
それは不信仰です。神様なんかいらない、という生き方です。自分中心の生き方です。自分が中心であり、自分が自分の生き方や人生を決める、ほかの人の指図は受けない、という生き方です。
神様があなたを幸せにしたいと言っても、いいや、自分は自分の生きたいように生きていく、というものです。私たちもかつてはそのようでした。そして大方の人は、そのように歩んでいます。
次に、神様と私たちの間に割って入って来るもの、それは様々な欲望です。金持ちになりたい、有名になりたい、権力をもちたい、これを自分のものにしたい、これを所有したい、これを楽しみたい、いろんな欲望です。これを聖書は、この世のもたらす欲だと述べています。この世の中で生きていくために必要な欲があります。しかし、これらのものを神様のお心に反して求めていくなら、これは神様に敵対するものだと言っています。
神様を知った私たちは、私たちの内に住まれる聖霊様を大切にしていこうではありませんか。なぜなら、神様は私たちをねたむほどに愛しておられるからです。