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なぜ泣いているのですか

【テキスト】ヨハネ20:11-14

11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。

13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。

 

聖書の箇所を何か所か読んでみると、マグダラのマリアのほかに二人の女性が一緒にお墓を訪れたことが記されています。しかも、まだ暗い早朝です。何をしに早朝のお墓にいったのでしょうか。

 

女たちは、イエス様の死体にもっと油を塗る必要があると考えました。ちゃんと埋葬してあげたいと考えていたわけです。ですから、何にもできない安息日が明けるのを待っていました。それで早朝なのですね。安息日が明けるのは、夕方です。夕方から始まり、夕方に終わるのです。ですから、次の日の夜明けを待ったわけです。

 

信仰深い彼女たちでしたが、イエス様が3日目によみがえるということは頭にありませんでした。死体がなくなっていたのを見て、だれかが盗んでいったと思ったのです。「ああ大変なことになった。イエス様のお身体が盗まれてしまった。」

 

マタイの福音書には、3回、弟子たちによみがえることを教えておられたことが記されています。見てみましょう。

16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

 

17:23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。

 

20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

 

ここにあるように、3日目にはよみがえると教えておられたことがわかります。でも弟子たちはだれもそのことを信じていませんでした。

 

③ペテロとヨハネの信仰

ヨハネの6節から8節をもう一度読んでみましょう。

7節の「イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。」と書いてありますが、前の訳では、丸めてあったというところが、巻かれたままになっていたと訳されていました。巻かれたままになっていたとういことは、頭に巻かれた布が、巻かれた状態のままで残っていたという風に解釈できます。そのまま頭の形を残して、身体だけが抜け出たかのようです。

 

イエス様の復活の体は、部屋の壁をも通り抜ける栄光の体でした。

 

ペテロとヨハネは、この不思議な布の状態を見て、イエス様のお言葉を思い出しました。そして見て信じたのです。イエス様はよみがえったのだと信じました。

 

ペテロとヨハネが墓から帰った後も、マグダラのマリアは、泣き続けていました。まだ、何を見ても心が閉じていたからです。最終的に天使の助けとイエス様の助けが必要でした。

 

御使いを見てもまだわかりません。ついにイエス様が名前を呼びました。「マリア」イエス様のお声を聞いて、やっと気づきました。あ、この声はイエス様の声だ。やっと心の目が開かれました。実際の目もイエス様を見たのです。そしてよみがえりを信じたのです。

 

しかし、その中に、トマスという弟子がいませんでした。彼は言いました。「わたしはそんなことは信じない。イエス様の手の釘の後を見ないと信じない。わき腹に手を差し入れてみないと信じない。」

 

トマスという人だけが、悪い不信仰の人のように見えますが、実は、トマスは用心深い人だと思います。簡単には騙されないぞ、弟子たちは幽霊か何かを見たのだと思ったのです。

 

実は、簡単に人の言うことを信じないというのは、私たちの姿でもあります。ここにすばらしい知らせがありますよ、といっても人はなかなか信じませんし、受け入れません。聖書の中に、あなたのためのすばらしい約束がありますよ、といっても、ああそうですかと言ってまともに受け入れません。

イエス様は、この疑い深いトマスに現れてくださいました。これは、本当に神様のあわれみだと思います。そして、「トマス、あなたの手を私の手に差し入れてみなさい。わき腹に差し入れなさい。」と言われました。

 

トマスは、そうしたでしょうか。いいえ。しませんでした。イエス様のお姿を見ただけで、ただひれ伏したのです。あなたこそ、わたしの神ですといって礼拝したのです。トマスもイエス様の復活を信じることができました。

 

イエス様は、念を押して言いました。「見たから信じたのですか。見ないで信じる人は幸いですよ。」と

 

イエス様は、弟子たちひとりひとりが復活を信じることができるように、多くの配慮をされました。マグダラのマリアにも、ペテロにもヨハネにも、そして弟子たち、トマスにも、一人一人に合った配慮をしました。信じることができなかった弟子たちが信じることができるようになりました。今日、私たちが信じることができるのは、神様のたくさんの配慮があったからです。聖霊様が教えてくださったことだということを覚えましょう。そしてこれは奇跡であり、幸いな人であることを覚えましょう。